神学的断想

潜在意識に頑固にこびりついていたのは、なにかまだ説明のついていないものがあるという表現不能の確信だった。<チェスタートン>

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『ふしぎなキリスト教』を読んで

・『ふしぎなキリスト教』読んだ。平易な『銃・伝染病・鉄』という感じ。なぜ西欧キリスト教文明が世界ヘーゲモニーを獲得したか? これを頭の良い信仰の無い二人が対談で解説。マックス・ウェーバーを主要な道具に使っている。

・キリスト教を否定する世界観を西欧現代が構築した時点で、実はキリスト教世界観が世界ヘーゲモニーを獲得したのだ、というのが結論かな。

・キリスト教世界観が世界ヘーゲモニーを獲得した理由。(ア)人格神が統治する、呪術が排除された世界像。(イ)宗教法によらず、自由に人定法を作れる社会像。(ウ)人間の平等原理によって限界づけられた国家像。で「平等原理」とは、神の前に万人が例外なく罪人ということ。

・王も乞食も、地獄行きの罪人という点で平等。王も乞食も、キリストの恩寵で救われる点で平等。王も乞食も、神に対して直接に説明責任を負う点で平等。これが「平等原理」だ。

・宗教社会学者にとってキリスト教は「概念」の複雑な構造体だ。この構造がどう生成したか考えるのが宗教学者の仕事。この構造がどう社会に作用したか考えるのが社会学者の仕事。仕事に「神」を道具として持ち込まないのが学者の仕事。つまり構造の形成・社会への作用の原因に「奇跡」を措定しないこと。

・学者は仕事に「神」を道具として持ち込まない。が、学者はキリスト教世界観の土台の上で仕事をしている。シナイ山でモーセに何が起きたかを自分の理性能力で今ここから推定できる、という確信は「理性的な神が統治する斉一的世界に住む理性的被造物としての私」というキリスト教世界観の産物だから。

・キリスト教世界観は、呪術的世界を駆逐し、斉一的世界を確立した。「奇跡」とは、世界が斉一的世界であって初めて可能な、創造主の主権の行使としての「斉一性の破れ」だ。それは神による主権の行使であるゆえに、人間はコントロールし得ない。つまり呪術ではない。人間はただ服従するだけである。

・神の主権に対する服従。これがキリスト者の生の根本的態度だ。この生の態度から、禁欲的な資本主義のエートスが生じた、と見るのがマックス・ウェーバーだろう。

・予定説とは、創造主の主権に対する人間の服従の教説である。それ以上でもそれ以下でもない。

弱さと信仰について

信仰は、弱さの中に根ざしている神への信頼である。迷い、不安、恐れ、疑い、怒り、失望、悲嘆。そうした弱さの中から神への信頼が立ちあがる、これ自体がひとつの奇跡である。水の上を歩くようなことである。人間が信仰によって歩むようになるために、神は世界の後背へと退き隠れる。

堕罪した人間の生存を保障する諸権力は、確かで、間違いがなく、理にかない、法則に基づくものを尊ぶ。それが諸権力の誇る栄光である。しかし、神はそれらの後背に退き隠れる。そして、人間がただ弱さの中から神を信頼することを求める。求めに応えて誰かが信仰に立つたびごとに、諸権力は恥を受ける。

天地を闇が覆い、光が光を失い、神の独り子が「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだあの瞬間、神は完全に世界の後背へ退き、人間の前から痕跡を消した。人間の弱さはその極みに達した。その弱さのただ中で、イエスは神を信頼して死んだ。この信頼に応えて父は子を復活させた。

人間の究極の弱さにあるイエス。究極の弱さの中での子の父への信頼。信頼に応えて子を復活させる父。この弱さに根ざした信頼において、諸権力が介在する場所は絶無となる。信頼において父と子が直結している。神はイエスを通して人間がこの直結に参入するよう招き寄せる。諸権力の栄光は打ち毀たれた。

蛇は「神抜きで強くなれる」と誘った。レメクは「強さが全てだ」と剣をかざした。アブラハムは弱さの中で神を信頼した。ヤコブは強かったのでももの筋を打たれた。ヨシュアは「神にあって強くあれ」と励まされた。ヨブの友人たちは弱さを罪だとみなした。ヨブは弱さの極みの中で神を信頼できなかった。

ペトロは自分は強いと思っていたが実は弱かったことを思い知った。イエスは弱さの極みの中で自分の霊を神の御手に委ねた。パウロは強くなりたいと祈ったが弱さに留め置かれ、「弱さを通して神の力が現れる」と確信するに至った。ヤコブは「自分は強い」と思っている人がほとんど危険であると指摘した。

「神抜きで強くなれる」「強さこそ全て」という諸権力と人間の願望がバビロンにおいて究極的に実現した時、バビロンは崩され、強い者たちは弱さの中に帰る。その時、あれは無力のうちに死んで敗北した、と強い者たちが思っていたイエスが、審判者として戻って来る。全ての弱い者たちを連れて戻って来る。

世界史と個人について

歴史は、進歩ではない。発展ではない。啓蒙ではない。宇宙理性の顕現ではない。歴史は、創造から終末への、キリスト初臨から再臨というベクトルで方向づけられた「中間状態」である。その舞台上で、人類の後見人たるアイオーン(時代の霊)が次から次へと交代していく。歴史とは、諸霊の交代である。

国家の起源は、人間の堕罪と、堕罪した人間の生存を保障する諸権力の設定と、その諸権力の退落と、諸権力の退落がもたらす世界の破滅と、破滅後の世界における諸権力への人間の再委託にある。再委託は、人類の後見人たる諸権力による分散管理としての諸国家、諸民族、諸言語、諸文化、諸宗教による。

諸国家とは古代そのものであり、人間は諸国家において諸霊の呪縛の中にある。その諸国家の中から、ひとりの人間が選び出され、神の御前に「応答する個人」として立たせられた。それがアブラハムである。応答者であるアブラハムは、神との契約の共同体のはじまりとなり、それは諸国家から超越していた。

契約の共同体は、諸国家から超越しているが、しかし、いつのまにか諸国家における諸霊の呪縛の中へ戻って行く。こうして、神の御前に「応答する個人」としての人間の主体性は喪失される。個人は個人ではなくなる。そのとき、預言者が遣わされ、諸霊の呪縛の中から再び個人が招き出され、選び出される。

諸国家における諸権力の呪縛は、神の御前に「応答する個人」としての人間の主体性を決して許さない。その意味で諸権力は悪鬼的である。諸権力は暴力を行使して個人の主体性を剥奪し、契約の共同体は「苦難のしもべ」となる。諸権力の交代である歴史において、契約の共同体は苦難の道を定められている。

神の御前に「応答する個人」としての主イエス・キリストは、諸権力が行使する暴力によって死に渡され、死者からの復活によって、諸権力の支配の桎梏を打破した。復活した人間としての主イエス・キリストは、完全かつ永遠的かつ不可逆的に、諸権力の支配の中から脱している。十字架が諸権力を打破した。

主イエス・キリストに結合された人間は、新しい主体として・歴史の中に・しかし・歴史を超越して・立つ。諸国家、諸民族、諸言語、諸文化、諸宗教は、この新しい主体に対してもはや諸霊の呪縛とはなりえない。むしろ、この新しい主体は、諸権力の悪鬼化を監視し、悪鬼化を抑制し、悪鬼化に抵抗する。

このような主体。すなわち、神の御前に「応答する個人」としての主体は、十字架と復活の主イエス・キリストに結合されることにおいて、諸霊の呪縛を脱し、何度殺されても再び主体性をもって立ちあがり、諸権力の支配からたえず超越しつつ、諸権力の悪鬼化を監視し、悪鬼化を抑制し、悪鬼化に抵抗する。

このような個人が存在するのが、近代である。このような個人が存在しないのが古代である。

全知全能の神について

ニシカワハリさん、曰く

質問をひとつ。無神論者が「全知全能の神が存在するなら、その神は『全知全能の神が知らない物』または『全知全能の神が持ち上げられない大きさの岩』を作れるか、という疑問が解決できない以上、全知全能の神は存在しない」と言いますが、どう答えますか?

対して、小生はこのように答えるべきだと考えます。

1 全能の神は、全能の神である「子」を生みました。子は十字架を担って倒れました。すなわち、十字架を自力では持ち上げることができませんでした。そして死にました。しかし、三日目に復活し、勝利者となりました。ここにおいて、神の全能は担保されていると考えられます。

2 全知の神である「子」は宇宙を創造しました。人となった子は、最高法院で殴られ「おまえを殴ったのは誰か言い当ててみろ」と言われましたが、当てることができませんでした。そして死にました。しかし、三日目に復活し、勝利者となられました。これもまた担保の一例です。

3 それゆえ、神が全知全能の神であるためには、神は万物の創造者であり、受肉して人となり、最高法院で殴られ、十字架によろめき倒れ、自ら立ち上がることができず、死んで、しかもなお三日目に復活し、勝利者となられる神。そのような神でなければなりません。

4 全知全能の神は「子」を生みたまい、子は神としてのあり方を捨てて、人のかたちを取り、十字架の死に至るまで「父」の御心に従いとおされました。受肉と十字架において全知全能の神は神の全知全能を放棄したまい、復活において神の全知全能を取り戻しておられます。

5 ゆえに結論として、全知全能の神がいたもうとするならば、それは主イエス・キリストとその父なる神、また、父と子の愛の交わりとしての聖霊でいたまわなければなりません。栄光が三位一体の神に、いまも、のちも、とこしえまでも、世々限りなくありますように。アーメン

科学が科学であることを止める地点

・ドーキンスは神を否定するけれど、神の概念が社会に存在する事実は否定できない。ドーキンスは一切を「閉じた系」内の進化で説明しようとするけれど、そうなると、進化の中から「神の概念」という行動様式が発生したことを説明できなければならない。説明しきれないなら、矛盾が生じる。

・「閉じた系」内の進化で説明できない矛盾があるならば、「開いた系」を考慮しなければならなくなる。さて、キリスト教は宇宙の外部の他者からの影響力を根幹に置いて世界内の矛盾を説明しようとするのだから、これは「開いた系」の考え方であって、ドーキンスはこの方向性を承認しなきゃならない。

・「閉じた系」の内部で説明がつかない場合、「開いた系」を考える。しかし、開いた系は、全体ではなく部分であるから、その系を包含するより大きな系としての「閉じた系」を考えることになる。その大きな「閉じた系」の内部でも説明がつかない場合、より大きな「開いた系」を考える。

・より大きな「開いた系」を包含する、より大きな「閉じた系」を考える。それを何度も繰り返して行って、もうこれ以上大きな「開いた系」を考えられないという地点に達したときに、「最終的な外部的要因」というものを想定することになる。この最終的な外部的要因は、聖トマスの第一原因と似ている。

・「最終的な外部的要因」というものは、宇宙の遠景に隠れている。「閉じた系」の内部で説明がつかない矛盾を「開いた系」に求めるという人間の探求は、この宇宙の遠景に隠れている「最終的な外部的要因」を志向する線上を進んでいる。部分に過ぎない人間の探求は、「最終的な外部的要因」を追い続ける。

・しかし、部分に過ぎない人間の探求のゆえに、「最終的な外部的要因」に、人間が完全に到達することは、あり得ない。人間は永遠に前進し続けるが、「最終的な外部的要因」は、永遠に宇宙の遠景に退き続ける。

・永遠に宇宙の遠景に退き続ける「最終的な外部的要因」を、わたしはつかまえた、と宣言した時点で、科学は終焉し、科学という看板を下ろさなければならない。

ジブリ映画『コクリコ坂から』の感想と考察(ネタバレ注意)

スタジオ・ジブリの劇場用アニメ作品『コクリコ坂から』を観た。

以下に感想を「あらすじ」「神学的分析」「考えさせられたこと」という順番で記す。あらすじの部分はネタバレを含んでいるので、まだ映画を観ていない方はご注意いただきたい。

なお、「航海の安全を祈る」というフレーズが文中に頻繁に繰り返されるが、これは「航海の安全を祈る」という行為が劇中において毎日繰り返し行われることを踏まえたものである。


あらすじ

赤いポピーを意味するフランス語「コクリコ」と呼ばれる女子勤労学生下宿。そこで毎日黙々とマカナイ仕事に励み、下宿人たちの世話をする少女メル。

ラテン語街区を意味するフランス語「カルチェラタン」と呼ばれる文化部学生会館。そこで毎日黙々と謄写版新聞の発行に励み、学生会館存続を訴えるシュン。

メルとシュンの間は、丘の上のコクリコのポールと、海の上のタグボートのマストとの間で毎日かわされる国際信号UW旗「航海の安全を祈る」で結ばれていた。

「航海の安全を祈る」という毎日かわされる祈りは、航海士として海へ出たメルの父に向けられていた。父は掃海艇の艇長として朝鮮戦争の機雷除去に従事中、殉職した。メルは父が「港」に帰ることを待ち続け、毎日祈る。

「航海の安全を祈る」という祈りはまた、メルの父ら三人の学友、沢村・立花・小野寺が帝国海軍軍人として相互に送り合った祈りであった。その祈りもむなしく、立花はシュンを残して戦死する。メルの父沢村はシュンを引き取って戸籍に入れるが、メルをみごもっていた母はシュンの面倒を見切れなかった。メルの父はシュンを、子を亡くしたばかりの友人、風間にゆだねた。

「航海の安全を祈る」という祈りで結ばれた沢村・立花・小野寺らの友愛により、メルとシュンは戸籍の上で異母兄妹の間柄となった。そうした経緯を知らずして、「航海の安全を祈る」という祈りを毎日かわし合っていたメルとシュンは、やがてお互いの存在に気付き、友愛で結ばれ、友愛が恋愛へ変化する中で、お互いが戸籍の上で異母兄妹となっていることを知って、深く苦悩する。

その苦悩の中で、文化部学生たちにとっての「港」であるカルチェラタンの存続が危機を迎える。明治時代よりあまたの学生を育てて世界という外洋へ送り出して来た「港」であるカルチェラタンは、老朽化し、理事会は建て替えを決定していた。

「航海の安全を祈る」という祈りで「港」から送り出され、世界という外洋で活躍して来たカルチェラタンのOBたちは、学生会館存続の危機を知って、次々と「港」に戻り、存続を願う学生たちへの支援を惜しまなかった。

「航海の安全を祈る」という祈りで「港」から女子勤労学生たちを世界という外洋に送り出して来たコクリコのマカナイ人であるメルは、恋愛の苦悩に心ゆさぶられながらも、男子学生たちの「港」の存続に骨を折る。多忙なマカナイのかたわら、シュンの謄写版新聞のガリ切りを手伝い、老朽化したカルチェラタンの大掃除と改装に女子学生たちと共に力を尽くす。

女子勤労学生の港コクリコと、男子学生たちの港カルチェラタンは、共に働いて「港」の存続に成功する。メルとシュンの訴えに心を動かされ、美しく整えられたカルチェラタンを訪れた理事長は、かつて自分も「航海の安全を祈る」という祈りでもってこの「港」から世界という外洋へ送り出されたことを想起し、若者たちに今なお「港」が必要であることを認めて、カルチェラタンの建て替えを撤回する。

カルチェラタンの存続が決定した瞬間、メルの父の友、小野寺から連絡が届く。外洋船の船長として今まさに港から出ようとしている小野寺は、メルとシュンの出生の経緯を知る証人だった。港から小型艇で外洋船の小野寺のもとへ急ぐメルとシュン。出航の直前に間に合ったメルとシュンは、出生の経緯を小野寺から聞き、二人が異母兄妹ではないことを確証されて、深い苦悩から解き放たれる。

「航海の安全を祈る」という祈りを互いに毎日かわし合うメルとシュンは、二人の生まれる前から続いて来た父と友人たちの祈りに支えられ、励まされつつ、今確かにお互いを友愛で結びつけ、恋愛で結びつける。固く結ばれた二人の絆の目に見えるしるしとして、父と友人たちが、また、知らずして自分たちがそうして来たように、今日もまた国際信号UW旗「航海の安全を祈る」を空に、海に、高くかかげるメルとシュンであった。


神学的分析

聖アウグスティヌスが提示した「巡礼の旅」の世界観によれば、われわれが生きる世界は広大な海であり、その海にあって、われわわれは「地上の国」から「神の国」に向かって、永遠の旅を続けている。ゆえに、人生は旅であり、巡礼であり、世界は航海の場である。

われわれの人生とは、あるひとつのベクトルを絶えず指向して行くことであって、そのベクトルとは、「地上の国」から出航して「神の国」へと帆を進めるベクトルである。

「地上の国」は、幼子である人類の揺籃の場所である。しかし、人類は、いつまでもユリカゴの中にはいない。立ち上がってユリカゴを後にする。ユリカゴから旅立つ時が来たならば、そのとき地上の国は「港」としての役目を果たしたことになる。港は、旅立って行く航海者たちの背中を、「航海の安全を祈る」という祝祷をもって、押し出す。

ラテン語街区と呼ばれる「カルチェラタン」(英語で言うラテン・クオーター)は、好奇心の輝きに満ちた幼子たちに、世界の探求の地図・道しるべ・旅の道具・訓練を授ける「港」である。

赤いポピーと呼ばれる「コクリコ」(花言葉は休息と平安)は、旅への不安をおぼえる幼子たちに充分な休息と平安を与えて、世界という外洋での長く厳しい旅に備えさせる「港」である。

装備が整い、心の準備が出来た航海者たちは、永遠の憧憬という風(それは聖霊の風である)に帆(それは希望である)をふくらませて、港から旅立って行く。彼ら・彼女らは、自分自身の巡礼の旅を、世界という外洋へ進めて行く。

幼子である人類は、裸のまま外洋へ放り出されることは出来ない。死んでしまうからである。装備が整い、心の準備が出来るまで、安全な「港」を絶対に必要とする。

そのような「港」が維持され保全されるためには、世界は常に「港」への奉仕者を必要としている。メルとシュンは、そのような奉仕のために選ばれた人間として、恋愛に心をゆれ動かしながらも、自分たちの務めを全うする実存的決断をなして、黙々とガリを切り、黙々とマカナイをする。二人の奉仕はすべて、ただ人々を「港」から送り出すために、つまり、コクリコとカルチェラタンから人々を世界の果てへ送り出すために、ささげられている。

世界の果てへ前進する人々のために、コクリコのポールから国際信号UW旗「航海の安全を祈る」の祝祷がささげられる。航海の目的地は、どこにあるのか? メルとシュンが、知らずしてお互いにこの祝祷をささげ合っていたことをポールの前で確認する場面で、遠景に、教会の十字架の尖塔が写り込む。人々の航海の寄港地が多様であるとしても、終着地が「神の国」であることを指す潜在意識的な暗示であろうか。

コクリコとカルチェラタンから人々を世界の果てへ送り出すために、おのれは身を尽くす、という実存的決断をなす瞬間において、メルとシュンはもはや幼子ではない。二人はもう旅のための準備が整っている。二人は形式的にコクリコ・カルチェラタンという港に身を置いて、いまこの瞬間も港のために世話を焼きながらも、しかし・すでに・立ち上がって、二人は「港」を出て、世界という外洋へ船出している。すでに人生という旅、巡礼、航海の場としての世界に、乗り出している。

人生の海に二人して乗り出して行く象徴的場面が、カルチェラタンの理事長の前を二人が辞して、手を取り合って走り、小型艇に乗り込み、外洋船へ向かうシーンでもって描かれている。


考えさせられたこと

幼子である人類の揺籃の場所としての「港」。自分にとっての「港」は、何だったろう? 郷里? 家庭? 高校? 部活? 図書館? 大学? ゼミ? 教会?

「港」から旅立つという実存的決断をしたのは、いつだったろう?

航海の場である世界において、自分はどんな旅をこれまでして来たろう? 今後この旅は、どうなって行くんだろう?

後から続いて出帆して来る人たちのために「港」を維持し保全するという奉仕。その奉仕の価値を自分はどれぐらい認識し、その奉仕のためにどれぐらい貢献できているだろう?

「航海の安全を祈る」という祝祷。この祈りを、自分は誰のためにささげているだろう? 今まさに出帆しようとしている世代の人たちのために、この祈りをきちんとささげることができているだろうか?

わたしたちの社会は、大切な「港」を維持し保全するために、どれだけ骨を折っているだろう? 幼子である人類が、裸のまま外洋で放り出されるような事態が、起きていないだろうか?


心に浮かんだ言葉

「塀をのけようとする時は、じっと立ち止まってお考えなさい。なんで塀がそこへこしらえてあるのか、ということを」
(G.K.チェスタートン)


心に浮かんだ祈り

願わくは、あなたの前に、道が上って行くように
願わくは、あなたの背を、風がいつも押すように
願わくは、あなたの顔を、陽が暖かく照すように
願わくは、あなたの畑を、雨が優しく潤すように
私たちが、再び相まみえる日まで
願わくは、あなたの手を、神が握っていてくださるように
(ケルト教会の祈り)

ああ、神さま
よろしくおねがいします
海は、すっごく広いのに
おれの船は、ちっぽけだから
(漁師の祈り)

「永遠の戦争」の終結

・アジア的なるものの中央には、実はアーリア的なるものが鎮座ましましている。デーヴァ神群とアスラ神群との「永遠の戦争」というアーリア的概念が、アジアの精神世界のダイナミズムの動力である。そこでは、善神と悪神が宗教地政学的にスイッチングする。

・インド亜大陸で悪神とされたアスラ神群は、イラン高原ではゾロアスターの宗教改革により善神となった。逆に、イラン高原では悪魔とされたデーヴァ神群は、インド亜大陸では善神になった。両者は、いつ始まったともわからず、いつ終わるともわからない「永遠の戦争」を続けている。

・アスラ神群とデーヴァ神群の「永遠の戦争」という概念に嫌気したアーリア人が、アーリア的二項対立図式を超越する大乗仏教に惹かれたのは当然であった。アジアの中央で大乗仏教を担ったのはアーリア人であり、彼らがそれを東アジアへ送り出した。最初の漢訳仏典はアーリア人によってものされた。

・人間世界の不毛な戦争が、形而上の世界に投影されて、神々の「永遠の戦争」という概念になったのだとすれば、神の独り子が完全非暴力・完全無抵抗で打擲され釘付けられ殺害され、しかもそれが永遠の勝利なのだという福音書の概念は、何がしか革命的なものがある。

・神々の「永遠の戦争」は、神々自身が発心して光明を得れば、終焉する。あるいは、神々の「永遠の戦争」は、敵の殲滅という目的が完遂されれば、やはり終焉する。あの神の子の十字架上の刑死において「全宇宙が殲滅された」と擬制するのは、後者の考え方である。

・あの神の子の十字架上の刑死において「全宇宙が殲滅された」と擬制するのであれば、敵はすでに武装解除されていることになり、味方もすでに剣を手放していることになる。そうして、敵を愛するという義務が残るだけだ。それ以降のあらゆる戦争は、非宗教的な戦略的意味付けしか持ち得ないことになる。

・御子の十字架以降のあらゆる戦争が非宗教的意味付けしか持ち得ないとしても、御子の十字架を奉じるアーリア人自体は、いつのまにか退落して、あのアジアの中央での彼らの始原にあった神々の二項対立図式「永遠の戦争」へと先祖帰りして行く。精神的元型が洗礼を受けるには、なお年月を要する。

・おお、神よ。われらの潜在意識の深淵にある元型に、まことの洗礼を授け、この洗礼にふさわしき実を、言葉と口と行いと生きざまを通して、結ばしめたまえ!

義認の時間論

・パウロ書簡は、神の義(父)と、義とすること(子)と、義とされてあること(聖霊)を述べている。義とされてあること(聖霊)は、キリストに結ばれた信者の共同体における「体験」として把握される。それは体験であるから、当然のことながら「時間」の中で展開されることになる。義認の時間論である。

・義認の時間論は、二重の直線構造である。下部構造として、創造から発して完成へ進むベクトルがある。これは不可逆的で決定論的であり、神の主権による聖定と言い得る。上部構造として、初臨から再臨へ進むベクトルがある。これはキリストに結ばれた信者の共同体の「体験」が展開する線である。

・キリストに結ばれた信者の共同体の「体験」は、1)イエスと出会う、2)イエスをキリストと告白する、3)危機を経験をする、4)自己の死とキリストへの全き明け渡しを経る、5)復活のキリストの内住の力を経験する、6)キリストの臨在を深化させつつ再臨の希望を生きる、という時間軸を進む。

・義認の体験は、時間軸において展開するが、不可逆的ではない。可逆的であり、信仰から退落することもある。それが時空の連続体内部の人間の体験だからである。しかしその「体験」は、義認の時間軸の下部構造である「聖定」を信仰によって想起して確認するたびごとに必ず前進させられる。

・義認の体験は、義認の時間軸の下部構造である「聖定」を信仰によって想起して確認するたびごとに必ず前進させられる。ゆえに、信仰の共同体の生活の中心には「想起すること」が置かれ、それは主の再臨の日まで繰り返され続ける。想起することとしての聖餐、待降節、受難節、聖霊降臨節。

良心の自由について

・神と隣人を愛せ、が永遠法。殺してはならない、が永遠法から分岐した衡平の法感覚としての自然法。殺した者に刑罰を科して治安維持するのが、制定法。殺そうとする者に武力で対抗して治安維持するのが、司法警察員と軍隊。殺した者が愛に回心するのを願ってかくまうのが、制定法への良心的不服従。

・殺した者に身体刑を課して治安を維持する制定法と司法警察員も、殺した者が神と隣人への愛に回心することを期待してかくまう良心的不服従も、淵源は神の愛の永遠法だから、現象として矛盾はあっても、理として矛盾はない。理が認められれば、良心的不服従は統治者から非を問われない場合がある。

・聖書的世界観。人間は放置しておくと殺し合って自滅してしまう。そこで神は人間を天使的諸力の管理下に置いた。管理する器が共同体である。共同体は主権(人と物を処分する力)位(首長に主権を付与する地位)支配(主権の行使を限界付ける範囲)権威(主権に従属する主体との関係)で規定される。

・堕罪した人間を自滅から守るために管理している、入れ物としての「共同体」であるが、これが、時に邪悪なふるまいをするのは、共同体の背後にあって統制している天使的諸力が「悪鬼化」するためだ、と聖書時代の古代人は観ていた。キリストは、十字架と復活によって、この天使的諸力を打破した。

・天使的諸力の管理の道具としての「共同体」は、死刑なり身体刑なりをメンバーに与えることによって、呪いの権能を執行する。ところがキリストは刑死して、彼らに呪いの権能を果たさせた上で、復活してしまった。彼らは二度目に呪いの権能を行使することができないから、彼らは無力化されたことになる。

・こうして、復活のキリストというのは、死を経て、身体性を捨てて、新しい創造に属する身体性を獲得することによって、呪いの権能から解放され、死刑と身体刑から解放され、共同体からも解放された、まことの良心の自由を持つ新しい人間として、出現したことになる。

・復活のキリストに結ばれた人間は、良心の自由を持つ。その自由は、死刑や身体刑の威嚇によって脅かされない。その人間は、復活を確信しているがゆえに、彼に対しては共同体の呪いの権能は無力にされているからである。かくして、良心の自由を持つ人間にとって、国家は最終権威ではありえない。

・憲法によって「良心の自由」を明記している国家はすべて、キリストの十字架と復活によって打破され、その額に十字架のしるしを刻印されているところの「キリストのしもべ」としての共同体である。

・憲法における「良心の自由」は、殉教者の血によって書き記され、キリストの血によって裏書きされている。

フクシマ後のキリスト者の三様態

・フクシマ後のキリスト者の言説は、日常性の「書き換え」により、次の三方向に分岐した。ア)受難者と共に受難のうちに留まる。イ)受難者に見切りをつけて携挙を待望する。ウ)受難者に見切りをつけて出エジプトする。

・携挙は、テサロニケ前書の聖パウロの原意によれば、先に逝去した朋友・家族・知人とのキリストにある「再会」の希望を伝えるにある。受難者を見限るとか、ひとり自分だけ受難を免れ得る、なんていう含意は、テサロニケ書を逆さにして100回振ったって出て来ない。

・出エジプトは、パウロもペトロも「世」が今やキリストの王的頭首権的統治の下にあると考えているし、ヘブル書著者は「脱出」が物理的前進でなく、神の都への精神的前進を意味すると考えているのだから、船や飛行機に乗ることはこれと言って別に価値は無い。

・神の都の到来を絵画的に描く黙示録において、それは宙天より降下する。つまり、物理的手段によっては誰もそこへ到達出来ない、という意味である。そこへ到達し得るのは、黙示録によれば、キリストにある受難者である。かくして、キリスト者は全然受難から免除されない。むしろ受難が必須の要件である。

・キリスト者の根本的な召命は、受難者キリストにならって受難者たれ、である。それが、十字架を背負って主に従え、という主の御聖言の意味である。人はだれも自分の十字架を選り好みすることが出来ない。ただ、主から負わされる十字架を主体的に担う決断をすることが出来るだけである。

・受難者のうちに受難者として留まれ、という召命は、いつまで続くのか? 十字架を経て復活に達するまで、である。一面においては、この世の事物への執着心が精神的な意味で死んでしまうか、一面においては、主と同様に生物学的な死をもって墓に葬られるか、である。墓に入るまで召命は終わらない。

・受難者として受難者のうちに留まれ、という召命は、しかし、あんまりにも基本的な事柄であるから、ほんとうは取り立てて言うべきはずのものでない。召命の冠をなすのは、心を尽くし思いを尽くし力を尽くし精神を尽くして汝の主なる神を愛し、自分を愛するように汝の隣人を愛せ。この2点に尽きる。

・最後の問いは、では隣人とは誰か、ということだ。主イエスの示したもう「よきサマリヤ人」の説話は、結局のところ、出会った人はだれでも隣人だ、ということである。この出会いにおいては、宗派、宗旨、主義、主張、人種、身分、出自は超えられている。超えられている故の「よきサマリヤ人」なのだ。

教会はチリを払い落として去るのか?

文部科学省が広域SPEEDIのデータを公開した。3月25日当日の放射性ヨウ素の積算量は、東京の相当部分において1平方メートルあたり10万ベクレルから100万ベクレルを示し、「高濃度汚染地区」となることがわかった。半減期が長い放射性セシウム、ストロンチウム、プルトニウムの拡散と積算量については明らかにされていない。

いまや、放射能で汚染された風景が、われわれの新しい「日常」となった。この新しい日常は、飛散した放射線物質の核種に応じ今後100年、1000年と続くことになる。世界は3.11以前と完全に変わってしまった。変わってしまった世界の中で、ただ、世界を超越した概念だけが変わらないものとして在る。それは「世にあって世のものでない」ものである。

われわれ人間の本質は、生物学的な「いのち」にあるのか? 人間の本質は、塩基配列のコードの中にあるのか? それとも、人間の本質は、それらを超えたところにあるのか? ナザレのイエスが墓に納められて三日目に復活した、という事象は、人間の本質のありかを指し示している。生物学的な「いのち」の終焉は、人間の本質を何ら毀損し得ない。それが復活の告げるメッセージである。

ヒューゴー賞を受賞したウォルター・M・ミラー・Jrの終末論SF小説『黙示録3174年』(1959年)の終章に、放射能によるミュータントの婦人が登場する。彼女の肩に生えている腫瘍のようなもうひとつの顔が「無原罪の御子」であることを、神父が発見する。勃発した二度目の核戦争の劫火の中で死にかける神父に向かって、無原罪の御子は「生きよ!」と、ミュータントの婦人の肩から呼びかける。

愚行の結果である放射能によって人間のDNAが千々に損なわれても、なお神は人間と結び合っていてくださるのか? 人間の生物学的な「いのち」が放射能で汚染されても、それでも神は「生きよ!」と招き続けてくださるのか? この終末論的な問いを『黙示録3174年』は問いかけている。

小説の結末では、教会は地球を見放す決断をし、修道士の一団が聖書と教義を携え、宇宙船に乗ってアルファ・ケンタウリ星を目指し旅立って行く。宇宙船に搭乗する修道士はサンダルを脱ぎ、水爆のキノコ雲を遠くに仰ぎ見ながら、放射能に汚染されたチリをサンダルから払い落とし、ハッチを閉める。ほんとうの教会は、放射能汚染の中に踏みとどまることができるのか? そのこともまた問われている。


3.11後の時代の晩祷のための祈り

ああ
私の体内に入った
ヨウ素よ
セシウムよ
ストロンチウムよ
プルトニウムよ
私の「いのち」を蝕む
緩慢なる死よ!
へりくだって
復活のキリストを
ほめたたえよ!
死んでよみがえった
あのお方に対し
おまえたちは
何の力も無いゆえに!
私は蝕まれたこの体を
ただキリストに任せまつる
キリストに結ばれたこの身の
復活の朝の来るを望み見て

人間と虚無と復活について

平穏無事な日常というものを、われわれはことさらありがたがることもなく過ごして来たわけだが、平穏無事な日常が一瞬に取り去られるのだということ、また、どんなに立派で有能な政府であっても、平穏無事な日常が取り去られるのを防ぐ手だては持っていないということを、われわれは見させられている。

等身大の一個の人間に出来ることは、ごく限られている。しかし、協働する多数の人間が成す巨大な構造物としての「社会」は、個人の限度を超えて多くのことをなし得るようになる。それが、動力としてのエネルギーを入手した時、ほとんどあらゆることをなし得るかのように錯覚する。限度は忘却される。

限度が忘却されたときに、あの「虚無の力」が到来した。多数の協働する人間が成す構造物としての「社会」は、その限界をつきつけられ、また、その手からエネルギーを荒々しく奪い取られた。こうしてわれわれは、再び等身大の人間に戻り、自分に何が出来、何が出来ないかを知るようにされる。

再び人間が「虚無の力」に抗して生きるためには、等身大の人間が「虚無の力」によって限界づけられつつも、ほかの人間と手をつなぎ協働して「社会」という構造物を築き直すほかない。その社会は「虚無の力」によって傷痕を深く刻印されているものの、もうおのれの限度をわきまえている新しい社会である。

「虚無の力」は繰り返しやって来る。そのたびに人間は限界づけられる。限界づけられるゆえに、人間はほかの人間と互いに手をつなごうとする。人間の本質が互いに手をつなぐことのうちに存するのであれば、結局のところ「虚無の力」は人間を滅し去ることは出来ず、人間をより人間たらしめるだけである。

人間の本質が、ほかの人間と互いに手をつなぐことのうちに存するのだとすれば、そのようなわれわれに知られ得る神とは、人間として手をつなぐ神、すなわち、あの「虚無の力」によって限度づけられ限界づけられて、決して消えない深い傷痕の刻印を受けた、等身大の人間になった神としての「神」である。

「虚無の力」によって限界づけられて消えない傷痕を刻印された人間としての「神」は、三日目に復活することによって「虚無の力」に対し一つの超えられない限界線を定めた。すなわち、人間は復活において死を越えて手をつなぎ続ける存在であり、「虚無の力」は人間の永遠の紐帯に触れることが出来ない。

この夕餉において、この食物を食べ、この飲物を飲む時、十字架において命となられた主イエスキリストの犠牲を想起することができますように!

今宵、互いに手をつなぎあう人々が囲む、すべての食卓において、あの「虚無の力」が決して触れることが出来ない人間の永遠の紐帯が、喜びをもって想起されますように!

自己と他者、超越と志向性、受苦性と聖化

自己を限界づける他者。その他者に出会うために自己は自己を超越し他者へ向かう。自己と他者の志向性の場が「世」である。世は絶対他者である神に限界づけられる。創造論的には創造と終末の枠によって限界づけられ、救拯論的には初臨と再臨によって限界づけられる。世は世を超越して神へ向かって進む。

世は世を超越して神へ向かう志向性を有する。ゆえに世は絶えず過ぎ行き、昔に逆行することは無い。世が世を超越することは、自己において生起する。自己が世という場にあって、自己を超え出て神へと身を投げ向ける(回心する)とき、自己は「世にあって世のものでないもの」に変貌している。

自己が他者により限界づけられてあることを、自己が自己の内に客体化したのが「受苦性」としての十字架である。受苦性において他者は自己の内に通底している。自己が、この十字架を進んで引き受ける決断をするとき、自己はすでに自己を超え出て他者へと向かう「主体」となっている。

主体の「受苦性」が神話的存在に投影されたのがキリストだ、とフォイエルバッハは言う(無神論)。神-人キリストの「受苦性」が受肉を通して全人類の実存様式を根底から規定している、とカール・ラーナーは言う(キリスト教)。両者を分けるのは、キリストの処女降誕(受肉)を信じるかどうかである。

苦しんで子を生む、という「受苦性」において、他者である神の意志を進んで引き受ける決断をしたマリアは、その決断において自己を超え出て他者である神へと身を投げ向けた、すなわち聖化された。ゆえに、マリアは信仰の母である。悪魔は人間の受苦性を軽蔑し、神は人間の受苦性を聖化のために用いる。

悪魔は人間の受苦性を軽蔑するが、神は人間の受苦性を聖化のために用いる。これが神の逆説である。歴史とは、この逆説が展開する場所である。「高ぶる者は引き下ろされ、しいたげられた者は引き上げられる」というマリアの讃歌は、神の逆説を歌ったものである。

宗教改革者ツヴィングリに敬意を表しつつ:おめでとう、マリア! 恵みに満ちた方。主があなたと共におられます。女性の中でいちばん祝福された方。あなたがみごもった赤ちゃんイエスさまも祝福された方。聖なるマリア、神の母、祈ってください、わたしたち罪人のために。いまも、わたしたちの「受苦性」の最後の極みである死を迎える時にも!

世界における神臨在の象徴としての聖書について

斉一的な構造を持つ世界において、奇蹟を経験して、その経験のうちに神臨在を確信して、創造主を信ずるという自由な人格的応答をなした人々は、神への応答に生きる集団としての信仰共同体を形成した。

斉一的な構造を持つ世界において、奇蹟を経験して、その経験のうちに神臨在を確信して、ゆえに創造主を信ずるという自由な人格的応答をなした人々は、その応答の内容を、神への応答に生きる集団としての信仰共同体において共有するために、聖なる文書群に記録して、世代から次の世代へと伝承した。

世代から世代へ伝承される聖なる文書群は、第一に、奇蹟の経験の内容を証しする。すなわち「召命」について証しする。第二に、創造主を信じた人々の自由な人格的応答の内容を証しする。すなわち「応答」について証しする。第三に、神への応答に生きる集団としての信仰共同体の信仰と生活を根拠づけ、その様態を規定し、その巡礼の旅の目的地を指示する。すなわち「約束」について証しする。このような召命と応答と約束は、世界における神臨在の目に見えるしるしとなり、神臨在の象徴となる。

世代から世代へ伝承される聖なる文書群が、信仰の共同体が集まるたびに朗読されるとき、そこにおいて「召命」が再現され、共同体成員から新たな「応答」が引き起こされ、そのようにして、共同体にとっての「約束」が確かなものとされる。すなわち、信仰の共同体の信仰と生活が、確かに根拠づけられ、その様態が確かに規定され、その巡礼の旅の目的地が確かに指示される。このように再現され更新された召命と応答と約束は、世界における神臨在の目に見えるしるしとなり、神臨在の象徴となる。

その一方で、神の召命に対しては、いつも、つねに、どこででも、それを拒否する人々が出る。神の召命に対する人間の応答を、おのれの自由な意志によって拒否する人々である。この人たちは、拒否するがゆえに、約束に参与しない。約束に参与しないがゆえに、信仰の共同体に加わらず、その信仰と生活を受け入れず、その様態をおのれのものとせず、それゆえ、自分の巡礼の旅の目的地を、おのれの欲するままに、おのれで定める。この人たちにとっては、信仰の共同体が共有する聖なる文書群は、神臨在の象徴としての意味を有さない。

信仰の共同体にとっては、聖なる文書群における神の語りかけを拒む人々の存在は、かえって、神臨在の象徴を指示することになる。すなわち、創造の自由な主権を行使し、奇蹟を通して人間に召命の語りかけをなす神に対して、自由な意志を持つ人間が自由な人格的な応答をなした結果としての、応答する人々であり、拒否する人々であり、そのいずれもが、神臨在の象徴を指示しているからである。

創造主の自由な主権が経験的に認識せられることについて

創造主の自由な主権の行使の結果が三つある。

第一、世界の斉一的な構造。
第二、人間の自由意志。
第三、奇蹟。

以上の三つである。

第一の「世界の斉一的な構造」について言えば、これは証明不可能なことがらではあるが、われわれ人間の経験として認識せられているものである。

すなわち、あることがらが繰り返し繰り返しいつでもそうなるならば、それは、いつでもどこでもそうなるはずである、という経験である。この経験にもとづいて、われわれは世界は斉一的な構造である、と観る。

第三の「奇蹟」について言えば、これは証明不可能なことがらではあるが、われわれ人間の経験として認識せられているものである。

すなわち、いつでもどこでもそうなるはずであるという世界の斉一的な構造についてのわれわれの経験が、時にまったく裏切られることが起きるのであり、それは、繰り返し繰り返し起きるようなことでないゆえに、ごくまれにそういうことが起きるとしか言えない、という経験である。この経験にもとづいて、われわれは世界に奇蹟が生起する、と観る。

第二の「人間の自由意志」について言えば、これは証明不可能なことがらではあるが、われわれ人間の経験として認識せられているものである。

すなわち、第一の「世界の斉一的な構造」という経験は、第三の「奇蹟」という経験によっては、まったく説明することができない。逆に、第三の「奇蹟」という経験は、第一の「世界の斉一的な構造」という経験によっては、まったく説明することができない。

そこでわれわれは、創造の自由な主権を行使する創造主の存在を想定することになる。つまり、創造の自由な主権を行使する創造主が、その自由な主権を行使することによって、斉一的な構造を持った世界を創造し、さらにまた、その同じ創造主が、その同じ自由な主権を行使することによって、世界の中に奇蹟を生起させる、というように観る。

このような創造主あるいは「神」について、われわれの中のある者たちは、神を信じ、神を拝し、神に身をささげて生きている。さらにまた、このような創造主あるいは「神」について、われわれの中のある者たちは、神を信ぜず、神を拝せず、神に身をささげて生きていない。

「神」に対するわれわれの態度が一様でなく二つに分離せられているという経験は、第一の「世界の斉一的な構造」という経験によっては、まったく説明することができない。なぜなら、世界が斉一であるならば、信心と不信心をめぐる万人の経験は、昔も今もどこででも単一であるはずだから。

「神」に対するわれわれの態度が一様でなく二つに分離せられているという経験は、第三の「奇蹟」という経験によっても、まったく説明することができない。なぜなら、信心あるいは不信心が奇蹟として生起するならば、大多数の信心という常態の中にごくまれに不信心が存在するか、あるいは、大多数の不信心という常態の中にごくまれに信心が存在するか、どちからであるはずだから。

しかし、われわれの経験によれば、信心はどこにでもあり、また、不信心はどこにでもある。かくしてわれわれは、「神」を信じるか信じないかという選択について「人間の自由意志」が存在する、というように観ることになる。

このようにして、われわれは「世界の斉一的な構造」と「人間の自由意志」と「奇蹟」とを経験的に認識しているのであり、そのことを通してまた、創造主の自由な主権をも認識していることになる。

科学は神の存在・非存在を証明し得ないことについて

科学とは、世界が斉一的な構造であるとの証明不能な前提に基づいて、部分から出発して、確率論を用いることによって、世界についての有効な認識に達し得る、とする方法論である。

ところで、神は世界の斉一的な構造に拘束されてはいない。神は自由な主権を行使する創造主だからである。さらにまた、神は世界を超越している存在である。そうすると、世界の斉一的な構造の線でもって神を追って行くことができない。その構造を超えた先に神がいるからである。

かくして、部分から出発して、確率論を用いることによっては、神について、それが神の存在を指示するものであっても、神の非存在を指示するものであっても、なんら有効な認識に達することが不可能であることになる。

もし、部分から出発して、確率論を用いることによって、神についての有効な認識に達することができるとするならば、その「神」は、世界の斉一的な構造に拘束されている存在であって、つまりは、創造主の自由な主権を保持してはいない存在ということになり、さらには、その「神」は、世界の斉一的な構造の延長線上に立っている存在であって、すなわち、ぜんぜん超越者ではない、ということになる。

ところで、創造主の自由な主権を保持しておらず、超越者でもない存在は、神ではない。

よって、科学という方法論によっては、神の存在・非存在は証明し得ないことは、明らかである。

大脳、世界、奇跡について

・同じ行為を繰り返すと、それに応じて脳の中に回路が作られて、やがて人間は何も考えなくても、その行為をやることができるようになる。朝に歯を磨くときに、ハタと考え込んで小一時間かけて解説書など読まずとも、われわれは無意識で歯を磨くことができてしまうのだ。

・いつもやっている行為は、回路が出来ているために、無意識でやれてしまうが、突然何か重大な変更が迫られると、われわれは慌てふためいて、必死になって対応しようとする。そのようにして、回路の書き換えをやっているのだ。

・回路を新たに書き換えなければならんような事態は、大変ストレスフルなので、われわれはそういう事態に会わないよう、用心する。こうして、われわれの「平穏な日常」は、同じ回路の使い回し、あるいは、恒常性の保障、ということになる。

・恒常性が保障されているような状態が、あるべき状態、ということになる。あまり保障されないという場合でも、予測可能な状態であるならば、それは許容される。恒常性が保障されず、予測も不可能であるならば、われわれは、途端にストレスを受ける。

・われわれが居住しているこの宇宙も、恒常性が保障されており、また、まがりなりにも予測が可能な宇宙であってほしい。それが、われわれの願望である。それは、不要なストレスは受けたくない、という願望でもある。

・この願望にもとづいて、われわれの脳の「恒常的な回路」は、宇宙全体へ拡大適用される。われわれが、いまここでする経験、つまり、脳内の回路を走る、あるパターンは、いまここだけでなく、100億年前の宇宙の果てにおいて通用し、100億年後の宇宙の果てにおいても通用するという、信仰である。

・われわれの脳の「恒常的な回路」を宇宙全体へ拡大適用する方法は、いつでも繰り返し繰り返しそうなるならば、それは、どこででもそうなるはずである、という確率論に基づいて、いまここの経験を、時空の彼方の全部へ適用しようとすることである。

・いつでも繰り返し繰り返しそうなるならば、それは、どこででもそうなるはずである、という前提は、われわれの脳の「恒常的な回路」という構造に根ざしているものである。

・1万年の期間において1回しか起きないような経験は、脳の「恒常的な回路」にとっては、まったく無意味である。なぜなら、そのような希有な経験に対応するように脳の回路を作り直したとしても、次にそれが役立つ機会が来るまでに、新たな1万年が経過してしまうからである。脳はそれまでに朽ちる。

・脳の「恒常的な回路」にとって、まったく無意味であるような、希有な経験は、ごくまれに例外的に起きるという意味で、奇跡と呼ばれる。奇跡とは、その経験に対して、新たに脳の回路を作り直す必要はないほど、ごくまれにしか起きない、つまり、予測することに意味が無い、ということである。

・しかし、このことは、奇跡に対して脳の「恒常的な回路」を作り直す必要が無いという、脳生理学的合理性にのみ関わることなのであって、奇跡という出来事それ自体が本当に起きる、ということは、全く別の問題である。

キリスト者と異教徒の関係について

・「福音を生きる」人は、どんな隣人にも善を行います。「福音のため」にする人は、隣人に改宗が見込めなければ、手を閉じます。

・果樹が、実を結んで、木みずから実を食べることはありません。自分で自分の実を食う木があったら、それは化物だ!

・木が実を結ぶのは、他者に実を食わせるためです。果樹園(世界)には他者(不信者と異教徒)が大勢いる。果樹園の主人は、彼らを不法侵入者として追い出したりせず、むしろ「隣人」と呼び、彼らに愛の実を無償で食べさせよ、と命じていたもう。

・木は、実を他者に差し出す。他者が実を食ったあと種が地に落ちる。種から新しい芽(回心者)が出るかもしれないし、出ないかもしれない。だが木は「確実に芽が出る保証が無いなら、おまえさんに実は食わせないよ」などとは言わない。すべてのひとに分け隔てなく食べさせる。

・キリストイエスに結ばれて御霊の実「愛」をむすびましたが、相手が異教徒だから愛しませんでした。。。なんて、あり得ない。

・キリストイエスに結ばれて御霊の実「喜び」をむすびましたが、相手が異教徒だから不快感をあらわにしました。。。なんて、あり得ない。

・チュートン騎士団は、異教徒のリトアニア人が改宗に応じない場合は、十字架の旗印のもと、ばっさり成敗してしまった。こうしてリトアニアの教化が成し遂げられたわけだが。ありえない。こんなことは繰り返されてはならない。

・膠州湾でドイツ人宣教師が殺められたとき、ドイツは軍隊を送って占領し、租借地にして青島を建設した。宣教師は巡撫官を僭称し、十字架の旗印のもと、地方役人を顎で使った。ありえない。こんなことは繰り返されてはならない。

・プロシアの教化が14世紀頃、リトアニアが16世紀頃までかかりました。欧州で異教から改宗した最後の国々です。チュートン騎士団(ドイツ騎士修道会)の布教は一切妥協を許さぬ苛酷なものでした。

・しかし15世紀にドイツ騎士修道会の一修道士が「ドイツ神学」を著しました。我執の放棄による信仰の内面化による「神との無媒介の結合」を主題とした本です。16世紀にマルチン・ルターが宗教改革を始めると、ドイツ騎士修道会は福音主義に改宗して軍団を解散し、その後は慈善団体となりました。

・プロシアは教化が遅かったので、クリスマス前後の行事に異教由来の風習が今も残っています。舟田詠子『誰も知らないクリスマス』に詳細に紹介されています。改宗を迫る時には剣を用いたのに、改宗後は異教の風習との妥協が行なわれました。だったら最初から剣なんか使わなければいいのに、と思います。

・異教徒との妥協というとアリストテレス哲学があります。イスラム世界では10世紀にアヴィセンナがアリストテレス哲学を駆使してイスラム教理学を大成しました。知識水準が遅れていたキリスト教世界は、アヴィセンナ翻訳監修のギリシャ・ローマの哲学書や医学書を輸入し、大学の教科書に使ったのです。

・イスラム世界から入手したアリストテレス哲学を駆使してキリスト教を弁証するために生まれたのがスコラ哲学です。トマス・アクィナスが大成しました。神学の仕事の根幹の部分に異教徒の助けをこれほど受けているのですから、われわれキリスト教徒が異教徒と無関係に生きられるなどと思うのは幻想です。

・アリストテレスの仕事を根幹に入れた中世スコラ哲学を、しかし、福音主義教会(宗教改革の教会)は放棄しました。キリストイエスによる「われと神との無媒介の結合」を確信していたゆえに、異教徒の助けも、哲学者の助けも、よもや不要であると考えたのでしょう。

・「われと神との無媒介の結合」を信じた福音主義教会は、しかし、膠州湾の悲劇を回避することはできませんでした。布教に剣を用いることをしない、ということを学ぶのに、宗教改革からさらに400年を待たなければなりませんでした。ようやく学んだのが、つい100年に足らないほど前のことです。

・さてヨーロッパにおいては、かつてのリトアニアやプロシアのように今や異教徒が多数派となりつつあります。少数派となりつつあるキリスト者は、自分が異教徒とどう向き合うのかという課題を1000年の逆転でもって試されています。これはセカンドチャンスとして神が与えた宿題でありましょう。

・異教徒が多数の社会で、少数のキリスト者が、異教徒にどう向き会うか。これは、キリスト者人口が1パーセントしかない本邦のキリスト者が日々経験している、世界にあまり類例が無い「希有」な経験です。初代教会の最初期に近い状況を日本のキリスト者は150年間生きて来ました。

・日本のキリスト者の150年の信仰と経験と知恵を、ヨーロッパのキリスト者に分かち合うことで貢献するという時代が、来ているのかも知れません。

力の夜、ヌミノーゼ、テキスト、キリストについて

・イスラムの本質は法にも文字にも無く、「力の夜」(ライラートゥ・ル・カドル)にこそあると思います。ラマダンの断食をするのは、その言語に尽くせぬ神の臨在の経験を、再び味わいたいがため。毎日五回の投身礼拝をささげるのは、その圧倒的な臨在に畏怖してひれ伏した経験を、常に想起するため。

・「力の夜」の経験をルドルフ・オットー流に表現すれば「ヌミノーゼ」である。人間を超越した聖なる存在に触れて、畏れのあまりゾッとする経験。畏れのあまり、身も心も全く「神」に献げてしまうという経験。この「絶対依存の感情」が、あらゆる宗教経験の中核にある、とリベラル神学は考えます。

・神性に畏怖しひれふす経験(わが主よ、わが神よ!)は、原始から古代を経て中世、近代、現代と、あらゆる時代、あらゆる地域の宗教経験に共通するとリベラル神学は考えます。ただ、オットーのように、畏怖の経験が進歩発展して最も洗練されたのがキリスト教だ、という弁証をする学者もいます。

・リベラル神学は、「神性への畏怖の経験」が宗教の本質であって、テキストはその経験を生起させるに役立つ限りにおいて尊ぶ、ということになります。「文字ではなく霊」の路線の追求です。すると、宗教感情Nを生起させる限りテキストBとテキストQとテキストRは価値等価ということになります。

・しかし、小生の考えでは、このヌミノーゼというのは言わば「ミルク」であって、確かに美味なれども、真実在(かたい食物)そのものとは区別される何かだ、ということになります。本質(フュシス)と愛(エネルゲイア)が区別されるように、キリストはヌミノーゼそのものではありません。

・さて、ここで重要な岐路となるのは、キリストを誰だと考えるのか、ということです。われらの宗教経験は「ヌミノーゼ」なのであって、ヌミノーゼを生起させるに役立つ限りにおいてキリストを尊ぶのであれば、キリストは相対化されます。ヒックの路線はこれでしょう。

・一方、われらの宗教経験は「キリスト御自身」に存するのであって、ヌミノーゼというのはキリストに随伴する副次現象に過ぎず、あったらよいにこしたことはないが、別になくてもかまわない。大事なのはキリスト御自身である、ということであれば、これはキリストを絶対化することになります。

・本質がヌミノーゼではなくキリストであるならば、すべてのテキストは、正しくキリストを指し示しているかどうか、という一点のみにて価値を判別され取捨選択されることになります。そうして出来たのが新約聖書正典でありましょう。

・してみると新約正典は、われらをキリストに導こうとするものであって、必ずしもヌミノーゼに導こうとするものでない。もちろんキリストとの出会いがヌミノーゼの経験である場合もあるが、そうでない場合もある。キリストがヌミノーゼの装置ではなく、ヌミノーゼがキリストを証しするということです。

サッカー、ボール、政治契約、表現の自由、政権交替について

・オランダの神学者ファンルーラーは、日曜の朝の礼拝の説教を済ますと、午後はサッカー場で試合をずっと観戦し、夕方また教会の教理礼拝で説教した。主の御前に生きるのに必要な空気や水のようなものという意味で、サッカーは神学的には「一般恩恵」あるいは「贖いの賜物」ということになるのであろう。

・サッカーが「一般恩恵」だとすると、当然そこには法領域というものがあることになる。つまり、ルールがあり、ルールに従ってプレイする選手がおり、ルールが適用される限界づけられた範囲としてのグランドがあり、ルールを行使する器としての審判員がいることになる。

・国家との対比で言えば、法であり、法に従属する主体としての国民であり、法が適用される限界づけられた範囲としての主権領域であり、法を行使する器としての統治機構である。だが国家のそれが絶対主権であるのに対して、サッカーのそれは分散主権だ。なぜならサッカーのルールは野球には使えないから。

・サッカーのごとき「社会の分散主権」は多数存在する。野球、相撲、クリケット、チェス、将棋、日本舞踊、アイリッシュダンス、フェンシング、太極拳、水墨画、アニメ、ポップアート、テクノ音楽、ロック、小唄など。いずれも、これのルールはかれに適用できないという意味で「社会の分散主権」である。

・そうして「社会の分散主権」に従属する主体が「市民」である。市民的自由とは、市民が文化の個々のルールに主体的に服する、ということである。それはつまり、国家は、将棋の対局に介入できず、国家は、サッカーの審判に指示出来ず、国家は、アニメの表現の様態を決定できない、ということである。

・「社会の分散主権」に従属する主体である「市民」が、その市民的自由の利益を、国家の統治機構の意思決定に反映させるために、市民の主体的な投票行動によって選出された「市民の代表」が「議会」である。ゆえにそれはHouse of Commons(庶民の家)また衆議院(民衆の家)と呼ばれる。

・「民衆の家」が、市民的自由の利益を損なうような法を制定することは不可能である。つまり、統治機構が将棋の対局に口出しし、サッカーの審判に口出しし、アニメ作家のコンテに口出しするような法を制定することは、市民の代表としての「民衆の家」の、いわば自殺である。

・「民衆の家」が市民的自由の利益を損なうような法を制定するという異常な事態を防止するため、合衆国憲法修正第1条は、市民的自由を損なうような法を議会が制定することを禁止している。この憲法こそ、国家と市民との間で締結された「政治契約」である。

・合衆国憲法の精神は、占領軍司令官の嚮導のもと起草された日本国憲法に移植され、そこでは国家が市民に対し「一切の表現の自由を保障する」と約束している。国家は、そのほとんど絶対的な権力を、この憲法という白線の内側で「のみ」行使することが許される。それは、サッカーの白線と全く同じだ。

・ボールが白線から出たなら、必ず攻守は交代しなければならない。統治機構が将棋の次の手を細かに指示するような法を行使しようとするなら、攻守は交代しなければならない。統治機構がアニメのコンテの素案を細かに指示するような法を行使しようとするなら、もはやボールを与えられてはならない。

・ボールが白線から出たなら、ボールは取り上げられて、攻守交代である。そうしなければならないと、ルールできめられている。国家と市民との間で締結した「政治契約」としての、あのルールである。

人類幼年期の後見人としての諸宗教について

・赤ん坊は、成人するまでは、後見人のもとで養育されなければ、死んでしまう。全く同様にして、人類は、キリストに結ばれるまでは、後見人のもとで養育されなければ、死んでしまう。では、人類の後見人とは誰であるか? 聖パウロによれば、天使的諸力(ストイケイア)が人類の後見人である。

・聖パウロによれば、ユダヤ人にとっての後見人は、律法である。さらに、聖パウロによれば、異邦人にとっての後見人は、異教である。ガラテヤ書において聖パウロは、律法の宗教と神々の宗教を、天使的諸力(ストイケイア)の宗教というカテゴリーにおいて、同一視している。ガラテヤ4:1-9

・律法の宗教は、人類の幼年時代において後見人の務めを果たし、人類をキリストのもとに連れて行くことになる。神々の宗教は、人類の幼年時代において後見人の務めを果たし、人類をキリストのもとに連れて行くことになる。人類の幼年期が終わって、成人した花嫁が婚姻を迎えると、後見人の務めは終わる。

・人類幼年期が終わり、新エルサレムが到来するまでは、後見人の務めは存続し続ける。後見人の務めが存続する期間が「中間の時」であり、それは、キリストの初臨と再臨の間に挟まれた時である。

・では人類幼年期は、いつ終わるのか? 花嫁が花婿キリストとの婚姻を迎える、あの新エルサレムの祝宴が開かれたときが、人類幼年期の終わりである。それゆえ、現経綸において「後見人は不要である」などと主張し得るためには、ひとはハイパーヒメナリアンという神学的立場を取るのほかはない。

・ハイバーヒメナリアンすなわちフルプレテリストである。

・ハイバーヒメナリアン的感性というものがある。すべての事物がすでに完全に極まった、という観点のみで判断する感性である。そこにおいては、物事の中間の相、というようなものは許容されない。後見人のもとで乳を含んでいる赤ん坊、のような存在は許されない。だれでも無理矢理に成人させられる。

・後見人の存在も務めも否定し、すでにすべての事物が完全に極まり、新エルサレムが到来して、すべての赤ん坊が無理矢理に成人させられるというような、そのような物の見方は、すくなくともこの二千年間においては、誤りである。なぜなら、この二千年間にわたり「中間の時」が続いて来たのだから。

信仰の様態が一様でないことについて

・創造者なる神が、創造者の自由な主権を行使して世界を創造した結果が、三つある。第一、世界の斉一的な構造。第二、人間の自由意志。第三、奇跡。である。

・われわれ人間は、自由な人格的な応答をなし得る存在(答責者)として、あらしめられている。われわれはまた、「世界の斉一的な構造」と「奇跡」という二項対立図式の狭間にあって、自由な人格的な応答を迫られている存在である。

・創造者に対するわれわれ人間の自由な人格的な応答は、二つの線に沿ってなされ得る。すなわち、「世界の斉一的な構造」の線に沿って理解された限りにおける「神」に対する応答。そうして、「奇跡」の線に沿って理解された限りにおける「神」に対する応答。この二つである。

・聖使徒トマスが、主の御復活の直後において、「この指を御手の釘あとに差し入れ得るなら信じる」と告白したのは、「世界の斉一的な構造」の線に沿った彼の応答である。聖使徒トマスが、主の御復活の顕現に接して、「わが主!わが神!」とひれ伏し叫んだのは、「奇跡」の線に沿った彼の応答である。

・一個の人間が、神に対していかなる人格的応答をなすのか。彼が「世界の斉一的な構造」の線に沿った応答をなすのなら、それが彼の信仰告白である。彼が「奇跡」の線に沿った応答をなすのなら、それが彼の信仰告白である。それは自由に主体的になされるものであって、ただ本人のみが決定し得る。

・彼が「世界は斉一的な構造であり、かつ、その構造は理性の認識能力に対応しており、ゆえに、理性の能力によって世界を把握し得る」と告白するのなら、彼は創造主なる神をたたえていることになる。創造主は、創造者の自由な主権の行使によって、世界をそのようなものとして創造したのだから。

・彼が「奇跡は、世界の斉一性の破れであり、かつ、その破れは理性の認識能力を超えており、ゆえに、理性の能力は奇跡の前で降伏せざるを得ない」と告白するのなら、彼は創造主なる神をたたえていることになる。創造主は、創造者の自由な主権の行使によって、世界の中で奇跡を行なったのだから。

・御復活のイエス(イエスは奇跡そのものである!)が指示した山の上で、弟子たちがイエスにお会いしたとき、ある弟子たちはイエスを「世界の斉一的な構造」に沿って引き寄せようとしたので、これはあり得ないことである、と考え、それゆえ「疑った」(マタイ28:17)

・御復活のイエス(イエスは奇跡そのものである!)が指示した山の上で、弟子たちがイエスにお会いしたとき、ほかの弟子たちはイエスを「奇跡」に沿って引き寄せようとしたので、これは畏るべきことである、と考え、それゆえ「礼拝した」(マタイ28:17)

・「斉一的な構造を持つ世界」の中で「奇跡」が起きるとき、われわれは、自由な人格的応答をなす存在として、時に、疑い、時に、礼拝する。それは、人により、時により、場所により、時代により、状況により、決して一様ではない。なぜなら「自由な人格的な応答」だからである。

・この「自由な人格的な応答」は、召命する神と応答する人の間の一対一の関係において生起するものである。他人は一切そこに関与したり介入したり出来ない。ペトロは主に言った、「この人はどうなのですか?」 主は言われた、「それがおまえに何のかかわりがあるか。おまえはわたしに従いなさい」

・われわれは新約聖書を千回通読していたとしても、いまあらたに、ここに赤線を引くべきである。「この人はどうなのですか?」 主は言われた「それがおまえに何のかかわりがあるか。おまえはわたしに従いなさい」

・それにしても、復活の主イエスの顕現にじかに触れて、なお疑った弟子たち、すなわち、この期に及んでなおイエスを「世界の斉一的な構造」の線においてのみ捕捉しようとした、あの弟子たちに、それにもかかわらず「世界宣教」の使命をお授けになった主イエスの器の大きさ、ふところの広さよ!

・確かにイエスの大きさは、われわれの理性の能力による把握を超えている。

リベラル神学について

・リベラルすなわち自由主義神学。それはいずこよりいでたるか?

・第ニ世紀における「テレヴァンジェリスト」然としたマルキオンは、劇的演出をした説教で世を風靡する一方、旧約の神を「誤れる神」とみなして、教会の聖なる文書群からユダヤ的要素を排除することに努めた。その結果、マルキオン派が認めた福音書はルカ伝のみ、となる始末であった。

・教会の聖なる文書群が、マルキオンの一派の独自の歴史的視点でもって批判され、校訂され、廃棄されたことに驚愕した世界の司教たちは、司教たちの相互認証による「聖なる文書群の目録」を作成することによって、マルキオンに対抗した。この「聖なる文書群の目録」が聖書正典である。

・つまり、聖書に対する歴史的批判的研究に対抗して聖書が出来た、ということになろうか。だが司教たちによる「聖なる文書群の目録」の相互認証の過程において、ある文書には議論が生じた。文書群中、使徒自筆に疑いないもの、まあ疑いないもの、かなり疑わしいもの、全然怪しいものがあったからである。

・「聖なる文書群の目録」から外すべきかどうかで、かなり後まで議論が残ったのがペトロ後書とヨハネの黙示録である。地方教会会議において、新約正典リストが現在の27文書に決定したのが、主の支配の第6世紀のことであるから、ずいぶんと相互認証には時間を要したことになる。

・相互認証が完了して決定した「聖書正典」は、全キリスト者の信仰と実行の唯一の規範となった。しかし、司教たちが相互認証したから正典になったというわけでもない。正典となった文書群は書かれた最初から正典にふさわしい「正典らしさ」を備えていたから正典とされた、と見ることができる。

・さて「聖書正典」と言ってもヘブライ語とアラム語とギリシャ語で書かれており、帝国の臣民さらに帝国滅亡後の移民らには、読むことも出来ないし、理解することも出来ない。だから一般民衆の言葉に翻訳する必要が生じた。こうして「庶民訳」(ヴルガータ)の訳業が聖ヒエロニムスにより大成された。

・「庶民訳」の訳業があまりに素晴らしかったこと。帝国滅亡後の教会が、帝国の遺産ラテン語を「文化復興」と「普遍的信仰」を推進する道具に使用したため、「庶民訳」は不磨の大典、世界の標準となり、フランク人もゴート人もチュートン人もアングル人もデーン人もロンバルド人も、これを学んだ。

・だが千年後にチュートン人の子(ルター)とフランク人の子(カルヴァン)は、福音的信仰によって回心し、福音的でない教皇の権威にいささかの疑問を抱いた。それは、教皇の自家薬籠中の「庶民訳」に対する疑問ともなった。聖書の本然の信仰は福音的信仰であるはず、と思えたからだ。

・こうして、聖書の本然の信仰が福音的信仰であることを弁明し立証するために、チュートン人の子とフランク人の子は、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語の写本から新たに聖書を翻訳し直すことに着手した。不磨の大典たる「庶民訳」が、庶民の末裔によって挑戦を受けたわけである。

・教会は文盲であったチュートン人とフランク人を千年かけて養育して来たわけだが、いまや立派に成人した子どもらは自立の証しとして「新しい翻訳の聖書」を教会につきつけて、「お母さん、あなたの育て方は、ここが間違っていましたよ」と宣言したのである。母は喜ぶべきであったが、できなかった。

・こともあろうか、チュートン人の子(ルター)とフランク人の子(カルヴァン)は、「正典」からペトロ後書とヨハネの黙示録を除外することを、真剣に考慮し提案した。怒り狂った母は、「庶民訳」を不磨の大典と認めない子どもたちは、例外なくすべて勘当する、と宣言して、離縁状をつきつけた。

・チュートン人の子とフランク人の子が、なぜにペトロ後書と黙示録を嫌ったかといえば、そこに濃厚なユダヤ人の終末論を認めたからである。ミュンスター千年王国派が引き起こした、オウム真理教どころでない大騒動に嫌気がさした二人は、すべての狂信の原因がユダヤ人の終末論にあると早合点した。

・だが、世界の司教たちが相互認証し、教会が千年にわたって「神の言葉」と尊んで来た正典から、どうしていまさらペトロ後書と黙示録、できればヤコブ書をも除外するなどできようか。チュートン人の子とフランク人の子は、そこまで思い切ることができなかった。正典の正典らしさに膝をついたのである。

・プロテスタンティズムの内包する問題が、しかしここに見て取ることができる。「われと神とは無媒介に直結せり」という福音的信仰は、教皇の権威を恐れない。さらには、世界の司教たちの権威をも恐れない。さらに進めば、世界の司教たちが相互認証して出来た「聖書正典」の権威をも恐れないことになる。

・第17世紀のプロテスタントの子である「敬虔派」は、「われと神との無媒介の直結」の体験を最も重視した。そうして、この直結の体験に奉仕し得ないものは、いかなるものであれ、批判にさらされることとなった。まず制度的教会が批判され、次に教職制度が批判され、さらに正典そのものが批判された。

・かくして、敬虔派のハレ大学において、聖書に対する歴史的批評的研究が本格的に開始されたのである。この流れから、モーセ五書資料説が生まれ、モーセ著者説が否定された。モーセ著者説を覆し得るなら、ほかのすべての文書についてもそうできるかどうか精査されなければならなかった。

・リベラルとは、自由であるということだが、自由であるとは、何ものをも恐れないということである。なぜ恐れないのかと言えば、「われと神とは無媒介に直結せり」という宗教体験が核にあるからだ。この人間は「われここに立つ」と叫んで、教皇と司教と教会と正典の権威に対抗して自らの主張をなす。

・大祭司(教皇)は「彼の口を打て」と言って、黙らせようとすること幾たびにも及んだ。しかし、黙らせることは不可能であった。この人間は、本当に「われと神とは無媒介に直結せり」と確信しているからである。それゆえ、誰も黙らせることは出来ない。だれもリベラルの口を塞ぐことは不可能なのだ!

・子らを勘当した母なる教会は、しかしいつまでも怒った母であり続けたのではない。確かに19世紀の教皇は已然として「庶民訳」を不磨の大典とし、新たなる聖書の翻訳を呪詛した。だが20世紀において母の態度は一変した。第二バチカン公会議後に、新たなる聖書の翻訳を認め、自らそれに着手した。

・いまや母なる教会が、聖書協会を支持し(19世紀には呪詛していたのに!)新たなる聖書の翻訳に力を貸し、それどころかミサにおいて新しい翻訳の聖書を用いることさえ認めているのだ。あのチュートン人の子とフランク人の子は今頃、新エルサレムの窓辺で驚愕のあまり卒倒していることであろう。

・卒倒している二人をやさしく介抱しているのは、小生の想像によれば、聖パウロそのひとと、それに、聖イグナティウス・デ・ロヨラであるかもしれない。

・パウロが二人を介抱するというのは、そもそもパウロが面とむかってペトロをなじり、主イエスの弟ヤコブを軽くあしらったことが、すべてのことの始まりと言えるかもしれないからである。ロヨラが二人を介抱するというのは、敵手とは言えロヨラとカルヴァンがパリ大学の同窓生のよしみであるからだ。

奇跡によって限界づけられた諸権力

・神は、創造者の自由な主権を行使して、世界を創造した。創造者の自由な主権の行使の結果が、三つある。世界の斉一的な構造。自由な意思を持った人間。奇跡。この三つである。

・自由な意思を持った人間が、その自由な意思を濫用した結果、悪が生じた。

・自由な意思を濫用する人間が、悪によって自滅することがないように、神は人間を天使的諸力の後見の下で保護して、人間の生存を保障する。

・人間の生存の保障の器としての共同体。共同体の構成要素としての位・主権・支配・権威。

 「位」  人を首長たらしめる能力付与。
 「主権」 人・物・時・場所を自由に処分する力。
 「支配」 主権が及ぶところの限界づけられた範囲。
 「権威」 主権とそれに従属する主体との間の関係性。

・自由な意思を濫用する人間は、世界の斉一的な構造の上において位・主権・支配・権威に囲い込まれることによって、行動を抑制され、悪によって自滅することなく、秩序ある安寧な生活を保障されている。

・世界の斉一的な構造の上における位・主権・支配・権威は、奇跡によって限界づけられ、超えられない線を定められている。創造者の自由な主権の行使としての奇跡、すなわち、神の受肉・十字架・復活・昇天・再臨という「イエスキリストの出来事」によって、位・主権・支配・権威は限界づけられている。

・主イエスキリストの再臨という終点は、世界の斉一的な構造の終点、位・主権・支配・権威の終点、自由な意思の濫用の終点であり、万物の終末と同時に完成の時である。

・主イエスキリストの再臨という終点において、主権に従属する主体(人間)は、自己の義務に従っていかに主権に従属したか、また、自己の良心に従っていかに主権に抵抗したかについて、説明責任を求められる。すなわち「最後の審判」である。

天使的諸力と国家

・国家についての神学は、後期ユダヤ教に始まったということができるだろう。ダニエル書では、当時の列強諸国の興亡が、神の摂理的支配の中に置かれているさまが、ヴィジョンによって描かれる。摂理的支配のエージェントが天使的諸力だ。こうして、諸国民の天使という神学的概念が提示されることになる。

・諸国民の天使という概念は、新約聖書正典において、キリスト論のもとに従属させられることになる。初代教会の共同体は、キリストが天使的諸力を創造し、保持し、統治しているという壮大なキリスト賛歌をうたう。国家権力や公共機関の背後にいる天使的諸力は、キリストに仕えるしもべとして見られていた。

・天使的諸力である位、主権、支配、権威は、キリスト再臨に際して除去され、神の直接統治が行われるとコリント前書は予告する。この終末論的出来事は、すべての死者の復活の希望と結び合わされ「神の国」到来の概念を構成している。しかし黙示録は、主の再臨の直前における国家の悪鬼化をも予告する。

・こうして、キリストによって創造され保持され統治され仕えている天使的諸力が、キリスト再臨の直前に悪鬼化し、教会を迫害し、キリスト再臨に際して除去されるという救済史の基本モチーフが構成されることになる。そうして、いま、天使的諸力の悪鬼化を阻止するものがある、とテサロニケ書は告知する。

・いまこのとき天使的諸力の悪鬼化を阻止しているものがある、とするテサロニケ書の告知について、その抑止者とは「福音宣教」そのものである、とクルマンは解釈する。もしそうであるとするなら、福音の説教は、天国の門を開かせ続ける神の救済意思そのものの目に見える表れである、ということになる。

・「福音宣教」が告げる福音の言葉が、この世の諸力の悪鬼化を、いまここで、阻止し続けている、ということである。こうして、この世の諸力は福音宣教に従属させられ、福音宣教に仕えさせられる。それは、万人の生存を保証し、秩序ある安寧な生活を、尊厳をもって穏やかに過ごさせる、国家の奉仕である。

・諸国民の天使が、民族と共同体と政治のみならず文化と宗教をも後見し保護し監督しているということが、二世紀のアレクサンドリアのクレメンスに始まる初代教父が共有する概念である。当時の宗教文化多元的状況を、初代教父は天使論を介することで主イエスキリストの王権的頭首権的統治のもとに置いた。

・神・天使的諸力・自然という三項図式の世界観は、中世のスコラ神学によって、壮大で精緻な天使論と、複雑で実務的な国家論を形成させた。組織神学(教義学)においては、天使論も国家論も共に、摂理論の下位部門として収められたのである。宗教改革は天使論を廃止し、国家論を形而下の枠に閉じ込めた。

・宗教改革によって形而下の枠に閉じ込められた国家は、神学によって、創造の秩序としてのみ取り扱われることとなった。国家が自然をも超えた悪鬼的振る舞いをするという可能性は、歴史の中で永らく忘却されることとなった。あのデーモニッシュな出来事が生起するまで。アウシュビッツとヒロシマである。

・しかし、ナチスの台頭前夜、シュリーアは新約聖書神学研究において、天使的諸力としての国家と、その潜在的な悪鬼的本質について、再発見した。デーンが確認し、カール・バルトが着目した。国家が悪鬼化し神から離反する時、教会は国家に抵抗しなければならないという「告白教会」の戦いの開始である。

・諸国民の天使の自然を超えた悪鬼的振る舞いによって、世界は焦土と化した。欧州の文明の残骸から立ち上がったクルマンは、国家を形而下の枠から引き出して、聖書の啓示の光の下に置いた。国家はキリストのしもべであり、同時に、悪鬼的であるゆえに「福音の宣教」によって抑止されなければならない。

・福音の言葉「十字架と復活」の言葉が語られなくなり、国家が聖書の光から離され、形而下の枠、創造の秩序の中でのみ考えられるようになるとき、国家は何度でも悪鬼化し、おのれを神として拝むよう諸国民に要求する。「わたしは神ではない。わたしは内在する生命を統合する原理だ」という主張のもとに。

・歴史に「もし」はないが、1920年代に諸国民の天使の概念を再発見し、戦後に新教から旧教に改宗したシュリーアの仕事が、早い時期に旧教側に認識され、回勅クアスプリマスのキリスト主権論に取り入れられ、ローマと告白教会の連帯が生まれていたら。だが世界が焦土となるまで、それは起きなかった。

信教の自由の嫡子としての表現の自由

・ペトロが「ナザレのイエスがキリストである!」と叫んだ時、当局はこの表現行為が秩序と安寧を乱すとしてペトロらを逮捕し、自由刑と身体刑を課した。このときペトロは、国法の禁止を受けても自分は表現行為を続行する覚悟である、と宣言した。かくして国法の規制と表現の自由という問題が始まった。

・アタナシウスが「御子は神である」との表現行為を行った時、「御子は被造物である」とする当事の多数派(アリウス派)はこれを問題視して、アタナシウスは自由刑を課され、その後も亡命の生活を余儀なくされた。だが、アタナシウスの表現行為が正しいとされる時代が来た。

・「ナザレのイエスがキリストである!」と表現して自由刑や死刑を受けていた、かつての少数派が、時代が転じて多数派になると、今度は自分と異なる表現行為をする者に対して自由刑や死刑を課すようになった。カタリ派など「イエスは神の子かキリストの子か」という二択問題に間違えただけで罰せられた。

・人々が聖書を翻訳し、独自の聖書の解釈を表現すると、当局は自由刑と死刑で罰した。ティンダルは聖書を英訳して火刑に処された。宗教改革者が「教皇は聖書の権威に劣る」と宣言した時、事態が転じた。多数の翻訳、多数の解釈、多数の表現の時代の到来である。西方世界はパンフレットの洪水となった。

・多数の翻訳、多数の解釈、多数の表現の結果、多数の信仰共同体が生まれた。多様な教団教派の到来である。それは次に、寛容の時代へ、つまり、自分と異なる表現行為をする者を自由刑や死刑の威嚇で脅かさない時代。他者の内心の自由のみならず、他者の表現の自由をも尊重する時代の到来である。

・旧世界おいて表現行為を制限され、 新世界に表現行為の自由を求めて移民した少数派は、多様な少数派を「自由」の理念で統合する人工国家を樹立した。E pluribus unumがその標語である。こうして、宗教的な表現行為の自由は、政治的な表現行為の自由となって行った。

・最初、宗教的な表現行為の自由であり、次に政治的な表現行為の自由となり、それが、文化的な表現行為の自由となったのは、1960年代に始まる対抗文化運動(カウンターカルチャー)における合衆国憲法の解釈をめぐる論争であった。こうして、非キリスト教的価値観の表現行為にも自由が保証された。

・非キリスト教的価値観の表現行為の自由が確立されて行く過程で、公共空間におけるキリスト教的な表現行為は漸次撤去されて行った。まず創造論が、次いで祈祷が、公立学校から撤去され、さらに、クリスマスツリーがホリデーツリーに、メリークリスマスがハッピーホリデーに改称された。

・本邦は憲法モデルを、王室が国教と結びつく旧世界型から採用した。大日本帝国憲法29条は「臣民は法律の範囲内において言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する」として、表現行為を法律で制限する。新世界型である合衆国憲法修正第1条が表現行為を妨げる法律を作ることを禁止するのとは真逆だ。

・先の大戦で敗北した本邦は、表現行為の自由を法律で制限する旧世界型憲法を脱して、表現行為の自由を抑止する法律の制定を禁止する新世界型の憲法を移植されたわけである。憲法21条の「一切の表現の自由の保障。検閲の禁止。通信の秘密の不可侵」がそれである。

・現状において日本国憲法第21条は空文であり、大日本帝国憲法第29条が廃止されずに、そのまま維持されていることになりかねない。表現行為の内容が法律によって規制され、しかもその法律は官僚の裁量範囲が大きいために、事実上官僚が国民の表現行為の様態を決定するという、旧世界より古い世界だ。

・合衆国憲法修正第1条「言論と出版の自由を制限する法律を制定してはならない」これに倣い日本国憲法第21条も「表現の自由を制約する法律を議会は制定してはならない」と修正する必要があるだろうか? ないのだ。憲法に反する法律は法理上無効であるから。だが無効が有効になるのが本邦である。

センスオブワンダー、あるいは、ロゴスにおける世界の創造・世界の死・世界の再創造

・センスオブワンダー。平凡な日常への輝きに満ちた驚きの感覚。

・日常の倦怠が累積して臨界点に達すると、再創造が行われ、世界のネジが巻き直されて、平凡な日常への輝きに満ちた驚きの感覚が取り戻される。「祭」とは再創造の場であり、祭によって進行するベクトルが「暦」である。

・平凡な日常を構成するもの。人・物・時・場所。それらを収める器としての共同体。

・共同体の構成要素。「位」(人を首長たらしめる能力付与)「主権」(人・物・時・場所を自由に処分する力)「支配」(主権が及ぶところの限界づけられた範囲)「権威」(主権とそれに従属する主体との間の関係性)

・人・物・時・場所とその器としての共同体は、「神話」というメタ言語によって、そのありようを根底から規定されている。

・神話は「世界の創造・世界の死・世界の再創造」のシステムを記述し、そのシステムの上で、日常への輝きに満ちた驚き→日常の倦怠の累積→臨界点における再創造→日常への輝きに満ちた驚き、という「祭」と「暦」が展開される。

・「世界の創造・世界の死・世界の再創造」のシステムがロゴスである。システム化する力であるロゴスは世界の根源である。ロゴスはメタ言語として、位・主権・支配・権威を記述した、つまり創造した。位・主権・支配・権威によって規定された共同体を器として人・物・時・場所が定置される。

・システム化する力としてのロゴスと、システム化される対象としての世界の間には、超えることの出来ないギャップがある。ロゴスは、システム化する力であるゆえに、それそのものが対象化されたもの(個物化され定置されたもの)ではあり得ない。

・しかしロゴスは、ギャップを乗り越え、自らを対象化し、自らにおいて「世界の死」を生起させ、自らにおいて「世界の再創造」を生起させた。ここに、自己を脱し、自己を超え出てて、対象へと無限に自己を投げ与えて永遠に止むことのない、ロゴスの超越性がある。この超越性が「アガペー」である。

・対象化したロゴスが自らにおいて「世界の死」を生起させたとき、ロゴスによって記述された位・主権・支配・権威が死に、位・主権・支配・権威によって規定された共同体が死んだ、つまり世界が死んだ。こうして、共同体Aとそれに対峙する他者としての共同体ナルAを区別する壁が解除された。

・自らにおいて「世界の死」を生起させたロゴスが、自らにおいて「世界の再創造」を生起させたことによって、位・主権・支配・権威の古い規定から離脱した、ロゴスの新しい規定による共同体が出現する。これが共同体Aをも共同体ナルAをも超越した、新しい共同体としての「エクレシア」である。

・エクレシアの「暦」は、世界の創造と再創造を七日ごとに祝う。この祝祭がエクレシアの進む基本的なベクトルである。

・エクレシアの「暦」はさらに、ロゴスの対象化と世界内への没入(クリスマス)、ロゴスにおける世界の死(受難節)、ロゴスにおける世界の再創造(復活祭)、日常に向かって無限に自己を投げ与え続けるロゴスがもたらす日常性の輝きに満ちた驚き(ペンテコステ)という「祭」を祝う。

・このようにして、世界は、ロゴスから出て、ロゴスに伴われて、ロゴスのうちにおいて、ロゴスに満たされつつ、ロゴスに向かって、進み続けてゆく。

・世界のネジは巻き直された。日常への輝きに満ちた驚きの感覚が再び取り戻された。それゆえに喜ぼう。おおいに喜ぼう。あらゆることを喜び祝い感謝しよう。

・対象化され、世界内に没入したロゴスの象徴が、聖餐物質である。それはまた、ロゴスにおける「世界の死」とロゴスにおける「世界の再創造」とロゴスが自己を世界に無限に投げ向け与え続ける永遠の自己譲与としての「アガペー」をも象徴している。

・このようにして、エクレシアの生活の中心の場所に、愛餐の食卓が置かれ、ロゴスによる世界の創造と再創造を祝う七日ごとの祝祭において、この食卓を囲んで食事をすることは、この共同体にとって最もふさわしいことである。

預言の賜物について

・賜物について。だれにどの賜物が授けられるかは、創造主なる神の自由な主権の行使によることなのだから、被造物に過ぎないわれわれキリスト者が「なんであんな人にこんな賜物が?」と言える筋合いのものではない。これはモーツアルトに対するサリエリの態度が過ちである理由である。

・預言の賜物が、たとえば野球のショートに相当するとして、野球のルールブック(聖書)が完成したからと言って、それ以降ショートが不要になるわけではない。ただショートはルールに従ってショートをやらねばならん、ということになるだけである。

・ある人が自分にこの賜物がある、と主張するのは、まったく信仰の問題ではなくて、実利の問題である。料理の賜物がある、と口で言っていても、まずい料理ばかり作るのであれば、料理の賜物は無い。同様に、預言の賜物がある、と口で言っていても、外してばかりいるのであれば、預言の賜物は無い。

・料理は味わって見れば、わかる。美味しければ、彼には料理の賜物がある。預言は吟味すれば、わかる。外れていなければ、彼には預言の賜物がある。このように、ある人にある賜物がある、というのは、信仰の問題ではなく、ただ実利の問題であって、いかなる曖昧さもそこには無い。

・預言する人が、会堂を掃除する人より霊的に優越していて権威がある、というのは、まったく馬鹿げた主張である。それは野球において、ショートがライトに優越しているというような主張である。だったらライト抜きのショートだけで野球をやってみたまえ!

・ショートが、いつでもボールを取り損ねているなら、もうショートはやめて、ライトかレフトに変わるべきである。預言する人が、いつでも外しているなら、会計係か掃除係に代わるべきである。

・西暦何年にリバイバルが起きる、と預言して、それが外れるのは、日本シリーズの優勝決定戦の9回裏でショートが取り損ねてまける、というほどの大舞台での失敗である。

・なぜむしろこう言わないのか?「リバイバルは創造主なる神の自由な主権の行使の結果であるのだから、われわれは主が言われたとおり、ただたんたんと水汲みの僕の働きをするだけである」 いったい水汲みの僕は、水を汲むだけであって、何分したらこれがブドウ酒に変わる、などと叫んだりはしない。

・主の僕、主の器とは、大舞台で外れ預言を語って反省の無い人ではない。ただ黙々と水を汲んで、表に立つことのない人であろう。

チャールズ・ピーター・ワグナーの「霊的地図」について

・CPWの「霊的地図」の件について。CPWが、西方教会伝来の「恩恵と自然」という二項対立図式ではない、「恩恵と中間領域と自然」という三項図式の世界観に着眼した点は大いに評価できる。

・しかし、中間領域に対するCPWの理解に問題があった。CPWは、この中間領域に帰属する「すべての良いもの」を「贖いの賜物」というカテゴリーに移入した上で、残りの「すべての悪いもの」だけで中間領域を構成し直し、これに「悪鬼的」というレッテルを貼ったのである。

・このようなCPWの中間領域の理解であると、三項図式の世界観は結局また「善vs悪」という二項図式に収束して終わってしまうのである。

・CPWの理解において欠けていたのは、中間領域に対する主イエスキリストの「王的頭首権的統治」の概念であった。この概念を欠いていたために、CPWにとっての中間領域は、王の統治の及ばない悪鬼と邪鬼の跋扈する無法の領域となってしまったのである。

・しかし、新約聖書の言明によれば、主イエスキリストの十字架と復活の出来事によって、中間領域の諸権力は打破され、キリストの王的頭首権的統治のもとに従属させられてしまった。ゆえに、中間領域は、王的統治の領域であり、諸権力は、キリストに奉仕するしもべとされているのである。

・もちろん、諸権力は潜在的な悪鬼的本性を解消したわけではない。しかし、諸権力はすでに打破されており、キリストの王国における奉仕者とされてしまっているゆえに、主の再臨直前のバビロン的状況より前に中間領域が悪に収束するということはなく、逆に善に収束するということもない。

・中間領域は、その諸権力が十字架によって打破され、その結果、キリストの統治したもう王国において人間の生存の保障の務めを託されているのであるから、それはすべて「贖いの賜物」である。そうして、それが悪に収束することも善に収束することもない。それは時に善であり時に悪となる。

・中間領域が、人間の秩序ある安寧な生活を保障する限りにおいて、それは善である。中間領域が、人間の人格の自由を破壊し生存を脅かす限りにおいて、それは悪である。それゆえキリスト者は中間領域に対して現実的な利益を期待するだけであり、是は是、非は非の対応をするだけである。

・しかし、中間領域を王の統治の及ばない悪鬼と邪鬼の跋扈する領域とだけみなし、キリスト者が祈りの言葉によって諸権力を中間領域から退去させなければならない、とCPWは考えた。そのための方法が「霊的地図」である。

・諸権力がキリストの王国に仕える奉仕者として領域をあずかっているのだとしたら、交番にいる警察官をキリスト者が実力行使で退去させることが出来ないように、キリスト者が祈りの言葉で諸権力を領域から退去させることはできないはずである。CPWは、その出来ないことを出来るかのように提案した。

・われわれはコリント前書15:24の御神言をおそれをもって読むべきである。諸権力を領域から退去させることがおできになるのは、宇宙においてただおひとかた、王イエスキリストのみである。われらキリスト者は、王の統治にただ従属する主体なのであって、われわれが頭になることは出来ない。

・われわれキリスト者が集合的人格としての「鉄の杖で統治する幼な子」なのだとか、われわれキリスト者が「再臨のキリストの足」なのだとか言って、「だから再臨前でもキリスト者は諸権力を退去させ中間領域を占領することができる」という主張は、御神言を曲げる詭弁であり、神の御経綸を暗くしている。

検閲、市民的主体の自由、国家と社会と教会について

・キリスト教的政治の原則は「強い者は弱い者の弱さを担うべきである」(ローマ15:1)だけであるはずだ。

・国家は教会から自立し、教会は社会から自立し、社会は国家から自立していなければならない。しかも、国家も社会も教会も「汝の隣人を愛せよ」という共通善のために奉仕しているのである。

・国家から自立した社会の自由とは、市民的主体の自由であって、身体、財産、職業、信教、言論、表現、通信、結社、学問の自由である。国家はこれらの自由を制限することができない。例外として、罪を犯した者を矯正する目的で自由刑を課す場合に、監獄の中においてのみ自由を制限することができる。

・市民的主体の自由を国家が制限できるのは、罪を犯した者を矯正する目的で監獄の中において自由刑を課す場合だけである。それゆえ、監獄の外においても検閲が行われ通信の自由が制限されているような国家は、それ自体が監獄という意味で「監獄国家」と呼ばれることになる。

・個々の市民的主体は、信教の自由の中で、自己の世界観的前提にもとづく価値観に従って、自己の家庭ないし共同体において、未成年者への教育内容決定権の一部として、自主検閲を行うことができる。しかし、未成年者を教育する目的はあくまで、自立した市民的主体を形成することでなければならない。

・国家は、また、なんぴとも、自主検閲をするよう人に強いることはできない。自主検閲は、市民的主体の「世界観の自由」と「教育内容決定権」にもとづいて行われるものであり、そうでないとしたら、それはもはや自主検閲ではなく、単なる検閲である。

諸権力について

・「パウロは、人間の生が一連の諸権力(位の霊、主権の霊、支配の霊、権威の霊)によって規制されているとし、時間、空間、生と死、政治と哲学、世論とユダヤ律法、敬虔と伝統、運命的な星の動きなどについて語り、キリストを離れた人間はこれらの諸権力に依存する以外にないことを明らかにした」ヘンドリクス・ベルコフ

・「諸権力は人間の命数を定め、人間の運命を導く。時代の要求、将来の不安、国家と社会の制約、生と死の限界、伝統と道徳の葛藤、これらはみなわれわれの「後見人」であり、人間の生活を結びつけて、世界を混乱から守る力である」ヘンドリクス・ベルコフ

・「パウロは、ユダヤ教における「自然界を支配する諸力」の概念を、ヘレニズムにおける「宇宙を支配する諸力」の概念と合わせて使用している。かくて、神と人間との間にあって、人間の生活を支配する様々な諸力が存在していることになる」キッテル新約聖書神学事典

・「天使的権力がキリストの支配のもとにある時、その機関としての国家権力はキリストに仕える。けれどもキリストの支配の外ではなく、支配の中で、その支配から離れる時、国家も自己目的化してサタン的になる。ここに終末的神の国に至るまでの中間時代の特色があると言わねばならない」清水義樹

・キリストの初臨と再臨のあいだの中間の時においては、諸権力はキリストの王国の奉仕者でありつつも、それを縛っている枷(国家と国民の間の政治契約としての憲法)をしばしばかなぐり捨てて、その潜在的な悪鬼的本性を露見しようとすることがある(詩編2:2-3)

創造主のみわざへの探求について

・創造者の自由な主権の行使の結果が三つある。第一。世界の斉一的な構造。第二。自由意思を持った人間。第三。奇跡である。さて、人間の人格を第一の線に沿って考えると、それは、決定論的人間観となる。人間の人格を第三の線に沿って考えると、それは、非決定論的人間観となる。

・この問いは、決定論か非決定論か、という二項対立図式である。答えは、神が「光あれ」と言われた瞬間に立ち会うことによってしか得ることができない。なぜなら、部分から始めて有限個のサンプル採集と確率論を用いて全体に到達するという科学の方法は、すでに決定論を前提としているからである。

・では「光あれ」の瞬間に、われわれが立ち会うことは可能か? 無からの創造という、世界の彼岸の一点における出来事に、世界内存在であるわれわれが参与することは不可能である。われわれが決定論的人間であれ、非決定論的人間であれ、われわれは観測者として、存在の始源の場所にいることができない。

・われわれは、世界の斉一的な構造の線に沿って創造者の御業を探求し、ある世界像を描く。われわれは、奇跡の線に沿って創造者の御業を探求し、別の世界像を描く。われわれは自由意思を持つ人間として、目の前に描出され提案された世界像を選ぶ。その一切が、創造者の自由な主権の行使の結果である。

・重要なのは、その選ぶことにおいてわれわれが、創造者の自由な主権を行使したもう神に、頌栄を歌う者であるべきだ、ということである。アロマノカリスよ、アンモンナイトよ、プロトケラトプスよ、クォークよ、クェーサーよ、造物主なる神を賛美せよ!

ウォルトキー博士の神学校辞任について

・福音派の旧約学者ウォルトキー博士が、聖書の逐語霊感説を保持しつつも有神的進化論を容認したため、改革派神学校の教授辞任に追い込まれた件。

・生命がいかに誕生し現在に至ったか? これは「全体」の像にかかわる問いである。われわれは部分に過ぎないので、この問いの出発点は、いつも、つねに、たえず、部分から始めるしかない。いかにせば、部分から全体に、われわれは到達し得るや?

・部分から出発し、有限個のサンプル採集と確率論を用いて、全体に到達し得る。この科学的方法が、われわれの住む世界において極めて有効である、ということを、われわれは経験則で知っている。なぜか。世界がそのような構造だからであろう、と言うほかない。

・最後の問いは「世界がそのような構造なのはなぜか」ということである。 神学は「創造者である神の自由な主権のゆえである」と答える。そうして、創造者である神の自由な主権を証言するのが、創世記の冒頭の記事である。

・創造者の自由な主権の行使の結果が三つある。第一。世界の斉一的な構造。第二。自由意思を持った人間。第三。奇跡である。

・科学は、創造者である神の自由な主権の行使の結果としての「世界の斉一的な構造」という線に沿って仕事をする。部分から出発し、有限個のサンプル採集と確率論を用いて、全体に到達することを目指す。この仕事において人間は、創造者の主権に従属する主体である。

・神学は、創造者の自由な主権の行使の結果としての「奇跡」の線に沿って仕事をする。全体(神)が部分(ナザレのイエス)においてあるという奇跡(キリスト)を通して、部分(信者)が全体(神)に到達することを目指す。この仕事において人間は、創造者の主権に従属する主体である。

・さて、有限個のサンプル採集の現場において、どの個物を標本として採用し、どの個物を標本として採用しないかは、自由意思を持った主体の自由な選択による。ある主体は「世界の斉一的な構造」という線に合うよう標本を選ぼうとする。ある主体は「奇跡」という線に合うよう標本を選ぼうとする。

・そのような標本の取捨選択によって描かれた全体像は、しかし、全体そのものとは異なる何かである。むしろ、全体を指し示そうとしている標識のようなものである。それらの標識が科学(斉一性)によって立てられたものであれ、神学(奇跡)によって立てられたものであれ、外すことのできない一点がある。

・科学(斉一性)という標識も神学(奇跡)という標識も外すことのできない一点とは「自由意思を持った人間」の人格の自由である。この自由が自由として保障されるために、生存の自由が保障され、表現の自由が保障され、信教の自由が保障されなければならない。

・生存の自由の保障、表現の自由の保障、信教の自由の保障のために、神の自由な主権の選びのもと、歴史において立てられ、保障の奉仕を行うようにと任じられた奉仕者が、国家と社会と教会である。

・ウォルトキー博士の生存の自由は、これをおびやかしてはならない。ウォルトキー博士の表現の自由、すなわち、旧約学の学徒として論じ講じ著す、学問の自由は、これをおびやかしてはならない。ウォルトキー博士の信教の自由、すなわち有神的進化論を奉じる自由は、これをおびやかしてはならない。

・一方、七日間創造説を奉じる改革派神学校の信教の自由もまた、これをおびやかしてはならない。要点は、この改革派神学校が、学問の共同体か、信仰の共同体か、ということである。ウォルトキー博士に辞任を求めた、という事実は、この学校が信仰の共同体であって、学問の共同体ではないことを証しする。

・ウォルトキー博士は、聖書の逐語霊感説を保持しつつ有神的進化論を奉じることにおいて、創造者なる神の自由な主権に従属する主体である。改革派神学校は、聖書の逐語霊感説を保持しつつ七日間創造説を奉じることにおいて、創造者なる神の自由な主権に従属する主体である。

・ウォルトキー博士と改革派神学校と、どちらがどちらに譲歩すべき理由も無い。おのおのが創造者なる神の自由な主権によって授けられた、その自由な意思を用いて、おのおのの信仰上の決定をするというだけであり、誰が罪を犯しているわけでも、誰が創造主の経綸を暗くしているわけでもない。

・だが、ただひとつ言えることは、改革派神学校は、信仰の府であって、学問の府ではない、ということである。

神義論についてのメモ

・神義論とは、世界になぜ悪が存在するのか、という問いである。

・さて、世界の根源が悪であったなら、世界内存在によって、悪は悪として認識され得るか? 答え「されない。その世界においては悪が唯一の常態であるから」

・ところで、世界内存在であるわれわれは、一部の哲学的立場を別にすれば、悪を悪として認識している。すると、世界の根源は、必ずしも悪ではなかったかもしれない、ということになる。

・では、世界の根源が善であると仮定して、なぜ善なるものから悪が生じるのか。これは、矛盾である。

・この矛盾を究明しようとする世界内存在の営為が、宗教である。

・第一の立場。矛盾は錯覚に過ぎず、事物の本然においてはなんら矛盾は存在しない、と観る。

・第二の立場。あらゆる事物は、それに相対するところの他者に限界づけられることでもって、事物たり得ている、つまり、矛盾していることが存在の自己同一性であり、矛盾は永遠の常態である、と観る。

・第三の立場。矛盾は、統一性における多様性から発して、多様性におけるところの個別性を通って、多様性における統一性へと向かっている、つまり、矛盾とは、存在から発して、存在を乗り越えて、存在へと向かって行くところの運動である、と観る。

・聖書の使信は、第三の立場である。三位一体の神が世界を創造し、世界内存在はその多様性において個別性を獲得し、しかも世界内存在は、その個別性において、その個別性をとおして、三位一体の神の統一性へと向かって動いて行く。この運動が救済史であり、その救済史を下部構造として持つところの上部構造が歴史である。

・聖書の使信は、また第二の立場でもある。世界内存在がその多様性において個別性を獲得するという過程においては、ある世界内存在が、それに相対するところの他者としてのもうひとつの世界内存在に限界づけられることでもって、初めてその個別性を獲得することができる。この限界づけられるということが、世界内存在の身体性であり受苦性である。

・聖書の使信は、また第一の立場でもある。世界内存在が、他者による限界づけによる身体性と受苦性を引き受けることによって、個別性を獲得するとき、その個別性において、そうして、その身体性と受苦性とを通して、世界内存在は三位一体の神と結ばれるからである。なぜなら、個別性ということ、身体性ということ、受苦性ということの中に、世界内存在と三位一体の神との「結合点」が存在しているからである。その結合点とは、受肉して身体性を獲得し、その身体性において受苦し、その受苦において三位一体の神の統一性としての「愛」を体現した主イエスキリストである。あらゆる世界内存在が、この「愛」という目的にすべて引き寄せられるとき、本然において矛盾が無いことが明らかになる。

唯一の契約、唯一の聖定としての主イエスキリスト

・時間を超え出たところ、時間の始源の彼方、時間の終焉の彼方において、永遠から永遠に存在したもうところのお方。すなわち、御父と御子と御霊。

・御子は、その永遠において、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくして、そのまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかっていたもう、すなわち、永遠の命の横溢であるところの御霊に、限りなく満たされていたもう。

・御父のお心は、これである。「御子が、その永遠において、御父にまったく従順して、そのことのゆえに、永遠の命の横溢である御霊でもって、御子を限りなく満たすこと」

・この御父のお心が、唯一の、永遠の、聖なる定めである。

・しかも、御父のお心は、「まことに神であり、まことに人である」御子を得て、そうして、そのような御子のまったき愛による、まったき従順を得て、そのようにして御子を、すなわち「まことに神であり、まことに人である」御子を、御霊で限りなく満たすことである。これが、神の聖定である。

・この「まことに神であり、まことに人である」御子のうちに「人」が包含されている。すなわち、御子のうちに人間が、すべての人間が包含されており、御子のうちに、わたしたち人類が、このわたしたちが包摂されている。

・御子は「まことに神であり、まことに人である」お方として、ご自身のうちに包摂したもうところの、すべての人間を、ご自身の一切において、ご自身の一切とともに、御父のお心へとささげつくしたもう。

・すなわち、御子は、ご自身において、全人類を聖別して、ご自身の御父へのまったき従順のうちに、すべての人間を従順へともたらしたもう、その従順へともたらされたすべての人間とともに、また、御子は、ご自身の御父へのまったき愛のうちに、すべての人間を愛へともたらしたもう、その愛へともたらされたすべての人間とともに、永遠の命の横溢である御霊に、限りなく満たされていたもう(むかしも、いまも、のちも、とこしえに!)

・御父のお心は、御子を、すなわち、神であり人でありたもう御子を、得ることであり、そのような御子を永遠に得ることであり、そのような御子、神であり人でありたもう御子を、御霊で限りなく満たすことである。

・それはまた、御子を、すなわち、神であり・また・人として全人類をそのうちに包摂していたもう御子を、御父が得ること。また、御子を、すなわち、神であり・また・人として全人類をそのうちに包摂していたもう御子を、御霊で限りなく満たすことである。

・この御父のお心が、唯一のお心であり、永遠のお心であり、不変のお心である。この御父のお心が、神の聖定である。そうして、これが、唯一の契約、永遠の契約である。ほかの契約には実体は無い。ただ、この唯一の契約、永遠の契約の、ほかの契約は影であるに過ぎない。

・この御父のお心の発露したものが、人間の創造であり、それを補完し、それに従属するものとしての宇宙の創造である。

・人間の創造は、御父のお心の枠の中において、その枠の中においてのみ、行なわれた。すなわち、神であり人でありたもう御子において、その御子よりまったき愛を得て、その御子を限りなく御霊で満たさんとする、その御父のお心の枠の中において、人間の創造が行なわれた。

・すなわち、御子を得るという御父のお心の枠の中において、人間の創造が行なわれた。それゆえに、人間の創造は、あるいは、それを補完し、それに従属する宇宙の創造は、ただ御子のために、ただ御子を目的として、ただ御子を得るために、ただ御子において、ただ御子によって、行なわれた。創造という神の行為は、御父のお心という大括弧の中に置かれており、かつ、その大括弧の中の御子という括弧の中に置かれている。

・こうして、人間の創造の目的は、あるいは、それを補完し、それに従属する宇宙の創造の目的は、徹頭徹尾、ただ御子であり、ただ御子のためであり、ただ御子のみ、である。

・創造された世界が、あるいは、創造された人間が、この枠、すなわち、御父のお心という枠から、離れてあること、あるいは、外に出てあることは、あり得ない(離れるということは不可能であるし、また、離れるということは、創造されて「ある」ことをやめて、無に帰するということである)なぜなら、創造は、御父のお心という枠の中で、すなわち、御子イエスキリストにおいてのみ、行なわれたものであり、行なわれているものであり、行なわれてゆくものだからである(キリストは、むかしも、いまも、変わりたもうことなし!)

・このようにして、創造された世界は、御父のお心に始点を発している。すなわち、御父が御子のまったき愛を得んとする、そのお心のうちに、創造された世界が始まっている。そうして、創造された世界は、御父のお心の完全な充足へと方向付けられている、すなわち、御子が、御父へのまったき従順であるところの、あの愛、あのまったき愛、十字架において頂点に達したあの愛をささげたもうて、御父より永遠の命の横溢である御霊の限りない満たしを受けたもうという、完全な充足へと、方向付けられている。これが、創造された世界の終点である。この創造された世界の始点は、時間の始源の彼方にあり、この創造された世界の終点は、時間の終焉の彼方にあって、この始点と、この終点との間において、創造された世界が、創造されて「ある」

・この始点と、この終点とを結ぶのが、救済の歴史であり、その救済の歴史を下部構造に持つ上部構造としての「歴史」であり、万物は、この始点から、この終点へと、運ばれて行く。御父が御子のまったき愛を得て御霊をもって満たさんとする、その御父のお心が、万物を、この始点から、この終点へと、運んで行く。

・御父のお心が、この創造された世界の始点であり、御父のお心の満足が、この創造され世界の終点であり、御父のお心の実現が、この創造された世界の中に突入して生起した、御子の受肉である。すなわち、御子が「まことに神であり、まことに人である」お方として、御父のお心にご自身をささげつくされた、そのようにささげつくすことによって成った、あの受肉の出来事である。

・この、御子がまったき愛のうちに、まったき従順をもって、ささげつくすことが、ひとつの面において、受肉であり、このささげつくすことが、もうひとつの面において、十字架であり、このささげつくすことが、もうひとつの面において、復活であり、このささげつくすことが、もうひとつの面において、あの聖霊の降臨である。

・御子が、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくして、そのまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかっていたもう、すなわち、永遠の命の横溢であるところの御霊に、限りなく満たされていたもう。この永遠の神の聖定。

・御子が、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくす行為としての「受肉」

・御子が、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくす行為としての「十字架」

・御子のまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかってあることとしての「復活」

・御子のまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかってあることとしての「聖霊降臨」

・この神の聖定において、われわれ人間は、神であり人でありたもう御子のうちに包摂され、その御子にあって、その御子のまったき愛において、その御子のまったき従順を通して、われわれ人間が、御父のお心へとささげられる。すなわち、われわれ人間が、御子の受肉のゆえに、われわれ人間が、御子に結ばれて、われわれ人間が、御子のうちにあって、あの十字架へともたらされ、あの復活へともたらされ、あの聖霊の降臨へともたらされる。

・この神の聖定が、永遠の契約であり、この神の聖定は、まったく御子イエスキリストであり、御子イエスキリストご自身が、神の聖定であり、御子イエスキリストご自身が、唯一の永遠の契約である。

・ほかのすべての契約には、実体はなく、ただこの御子イエスキリストが、永遠の契約として、契約の実体を成し、ほかのすべての契約は、ただこの御子イエスキリストを指示しているのであり、ただこの御子イエスキリストへとわれわれを連れて行こうとしている案内なのであり、ただこの御子イエスキリストを描出しようとするところの影であるに過ぎないのであって、この唯一の契約であり、この唯一の聖定であるイエスキリストご自身を離れては、ほかのいかなる契約も存在し得ない。

キリストの王国

・聖句「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」ペトロ後書3:22

・主イエスキリスト、世を治めたもう。「キリストの王国」

・主は、恩寵によって、世を治めていたもう。

・恩寵とは、主が、諸力によって殺され、三日目に復活することによって、諸力を打ち破り、諸力をご自分に服させられた、その諸力を使役して世を治めたもう、という恩寵である。

・力を捨てて勝利された主が、打破された力を使役して、世を治めたもう。

・すべての力には、十字架の印が刻まれている。

・主が世を治めたもうのは、福音によって人々をご自身に招くためである。

・招きの時が閉じられる日まで、すなわち、主イエスキリストの再臨の日まで、主は、恩寵によって、世を治めたもう。

・世の諸力は、すべからくこれ、キリストのしもべ、である。

・世の諸力は、人間に秩序ある安寧な生活を保障する限りにおいて、その務めを果たすことが出来る。

・世の諸力は、人間に秩序ある安寧な生活を保障できなくなった場合、すなわち、福音の召命を人々が聞いて応答することを不可能ならしめるような場合、その務めから離反しているのである。

フォイエルバッハ問題

・ヘーゲル → ヘーゲル左派/フォイエルバッハ → マルクス/エンゲルス

・フォイエルバッハによる宗教批判。

・人間と身体性とを同一視。

・人間とは他者によって限界づけられている存在である。

・限界づけられているもの=身体性

・限界づけているもの=他者

・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)ことによって自らを自らたらしめる(主体化する)もの=実存

・限界づけられていることによって不可避的に経験せしめられる苦痛=人間の受苦性

・「人間は身体である。ゆえに、人間は苦しむ」 人間存在がその最初から最後まで終始一貫して・しかも・不可避的に負わせられている受難としての十字架。人間は本来的に苦しむ存在である。

・苦痛から逃れるために人間が行なうところのたくらみ。

・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体は、そうすることによって、おのれのうちに「内在する客体」を保有するようになり、「この・対象化」によって、おのれを外部から限界づけているところの、ほんとうの他者に通じようと試みる。(毛沢東『矛盾論』を参照せよ)

・主体が「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」を、おのれを「補完する存在」として取り込もうとする、たくらみ、もしくは、志向性。それが「理性」である。(これは、正・反・合の弁証法的展開であり、ヘーゲルの流れである)

・苦難から逃れるために人間が行なうところのたくらみ、としての「理性」あるいは科学、もしくは、身体性(自然)の征服・制圧・支配・管理。

・苦難から逃れる為に人間が行なうところの、もうひとつのたくらみ、としての「宗教」

・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体=人間=の「投影像」としての主イエスキリスト。

・十字架につけられた主イエスキリストは・われわれの・本然の姿の・投影である。

・そのイエスキリスト・のみ・を拝み、そのイエスキリストに・似た者に・なる、ということは、結局のところ、「人間が人間になる」つまり「わたしが本然のわたしになる」ということに過ぎない。

・主イエスキリストに・似た者に・なる、つまり、「人間の神化」は、とどのつまり、人間が人間として人間の身体性および自然を征服・制圧・支配・管理することについての、全面的肯定を述べているに過ぎない。

・「限界づけられていることを自らのうちに引き受ける」主体としての受難の主イエスキリスト、および、十字架を担う主の弟子たち。

・「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」とされたところの「補完する存在」としての「聖霊」

・この「聖霊」によって、通じ合えるところの、外部にいる「ほんとうの他者」としての「父なる神」

・かくして、三位一体の神すらもが、人間が人間を描いたスケッチに過ぎない。

・苦痛から逃れるために人間が行なうところの「たくらみ」としての科学と宗教は、たくらみとしては、双方本質的に同じであり、変わるところがない。ただ、双方の用いる言語が、数学的であるか、宗教的であるか、の表現方法の違いにしか過ぎない。

・人間が人間としての身体性および身体性の延長としての自然(それらは、自己のうちに内在する客体、すなわち、あの・対象化された「像」において その「像」を媒介して、把握されるところの自然である)は、「矛盾の解消」の過程におかれ、「人間化」の過程におかれ、「同一化」の過程におかれ、「止揚へ」の過程におかれ、「客体と主体の融合一致」の過程におかれている。

・その弁証法的な過程が目指すところは、人間が、人間の身体性および自然を、征服し、制圧し、支配し、管理することに、向けられている。

・科学と宗教の「完全なる同根」!

・科学も宗教も、自然を征服し、制圧し、支配し、管理するために、人間によって使役されるところの道具(ツール)に過ぎない。



それでは、われわれキリスト者は、フォイエルバッハに、如何に答えるべきか?

・アスランは飼い慣らされたライオンではない。死は、すなわち、人間を限界づける他者として最強の力をふるって、受苦性と同義であるところの身体性を、粉々に破壊してしまうところの、ほとんど絶対的な他者である。しかし、アスランは、死を打ち破り、復活なさった。

・アスランは、自然を征服し、制圧し、支配し、管理することができる。彼は王として死に、王として復活し、受苦性と同義であるところの身体性を、復活へともたらした・つまり・永遠不滅のものとした。

・その一方、われわれはだれも、アスランを征服し、制圧し、支配し、管理することは、できない。

・だれも、アスランの死骸を(つまり、あの・対象化によって、客体化されたところの「神」を)「客体」という箱・すなわち「墓」の中に、ずっと閉じ込めておくことは、できない。

・「あのかたは、ここにはおられない」!

・だれも、復活のアスランを墓(つまり、あの・対象化という墓、あの・客体化という墓)の中に閉じ込めておくことができず、三日目にアスランは復活して、そこから抜け出たもうた。

・問い「アスランは人間の像であるか?」 

・答え「アスランは人間の像ではない、と考えられる」

・けだし、人間を人間たらしめているものは、その身体性であり、その受苦性であり、人間は苦痛から逃れる為に、「内在する客体」において/を媒介として、身体性/自然を征服し、制圧し、支配し、管理しようと「たくらむ」のであるが、その「自然の征服」は、宗教では、受肉し十字架にかかり復活した主イエスキリストによって推進され、かつ、科学では、主体と客体の間の矛盾を超え出てゆく科学的実験と、自然をコントロールする道具としての科学的技術によって推進される。

・そのイエスキリストは人間の「像」である、と言われている。しかし、イエスキリストは、墓(客体化)によって、征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得なかった。

・ところで、キリストが人間の「像」であるならば、その論理的帰結は、人間はキリスト同様、客体化によって征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得ないことになる。

・最後の問い「征服され得ないものが、征服する、というとき、その征服され得ないものが、その征服する対象であるところのものと、同一である、ということが、あり得るか?」(常勝のドイツ軍が勝利する、というとき、その常勝のドイツ軍が、戦いで敗北した相手であるところのドイツ軍と、同一である、ということが、あり得るか?)

・「あり得ない」

・これをもって、フォイエルバッハへの反駁は、終わった。



宣教と霊的形成

・神の創造の目的。「ご自分のかたち(イマゴ・デイ)似せて人を造り、これを神の嫡子とするため」

・創造の目的の成就としての主イエスキリスト。「神が人となりたるは、人が神となるため」(アタナシウス)

・「神化」(テオーシス)としての霊的形成(スピリチュアル・フォーメーション)

・私が他者(神と隣人)に対して自己譲与するという「十字架につけられ復活した主イエスキリスト」としての「イマゴ・デイ」

・「人がその友のために命をすてること、これより大きな愛はない」「神は愛である」

・神からの愛としての、主イエスキリスト。

・神への愛としての、主イエスキリストに結ばれたキリスト者の歩み。

・「神への愛」のバロメーターとしての「隣人への愛」

・愛あるところに神あり(Ubi amor est, Deus ibi est)

・隣人のあるところに神あり、神あるところに隣人あり。

・「最も小さな隣人」たちのうちに隠されている、主イエスキリスト。その主イエスキリストによる「最後の審判」

・神の宣教の目的。「アダムの末裔が、十字架につけられ復活した主イエスキリストという『イマゴ・デイ』において回復されるという、福音の召命」

・この召命は、「最も小さな隣人」たちのうちに隠されている、主イエスキリストを認めて、これに仕えるようにとの召命である。

・私の自己譲与としての「小さな十字架」

・小さな十字架を担って主イエスキリストに従うとは、小さな釘によって小さな十字架に私が打ち付けられて、痛む経験である。

・主イエスキリストの御足跡をたどり、私もまた「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)において、つまづき倒れる経験である。

・主が、私の小さな十字架を、すでに担っていてくださったことを知る経験である。

・小さな釘によって小さな十字架に打ち付けられて、痛む経験の中に、痛みたもう主イエスキリストが、静かに臨在しておられるのを知る経験である。

・出会う隣人の数だけある「小さな十字架」

・聖パウロの宣言。「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」 聖パウロにとって、キリスト以外のいかなる益もないのであるからして、この宣言は、「生きることはキリスト、死ぬこともキリスト」にほかならない。

・無数の小さな十字架が飾られた「森の古き聖堂」としての、この世界(ロシア正教に伝わる寓話)

・「森の古き聖堂」の中に飾られた、無数の小さな十字架のうちより、おのれの負うべき十字架を見出して、静かに担うこと。それによって、変えられる私。それによって、創造の完成へと近づく世界。

・「宣教」すなわち、万人が「森の古き聖堂」の中に進み入り、無数の小さな十字架のうちより、おのれの負うべき十字架を見出して、それを静かに担うようにとの、万人に対する召命の説教。

・この「宣教」の結果、福音の召命に応答した者は、主イエスキリストという「イマゴ・デイ」において、神の似姿へと回復される。すなわち、私が他者(神と隣人)に対して自己譲与するという「十字架につけられ復活した主イエスキリスト」としての「イマゴ・デイ」である。

キリストに生きる

・御父の思いを、聖霊はすべて知っていたもう。

・聖霊は御父の思いを、御子にあまさず示したもう。

・御子は、御父の心に、まったく従いたもう。

・御子に結ばれた者は、聖霊が示す御父の心に、御子によって、従う。なんとなれば「われ生くるにあらず。キリスト、わが内に生きたまえばなり」

・信心(御父の心を行うことによって御子のごとくなること)に関わる力は、すべて御子キリストによって、われらに与えられている。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」(ペトロ後書1:3)

宗教改革500周年に向けた個人的アジェンダ

・95か条の提題。1517年10月31日。ウィッテンベルク城教会。
・ライプチヒ論争(ルターvsエック)1519年。
・『キリスト者の自由』1520年。
・ヴォルムス帝国議会「われここに立つ」1521年。
・ミュンスター千年王国派の惨劇。1525年。
・マールブルク会談(ルターvsツヴィングリ)1529年。
・首長令。1534年。
・『キリスト教綱要』1536年。
・トリエント公会議。1545年。
・アウグスブルク宗教和議。1555年。
・39か条。1563年。
・ナントの勅令。1598年。
・ウェストミンスター信仰告白。1646年。
・ウェストファリア条約(新旧地域確定)1648年。

・宗教改革500周年。2017年10月31日(あと8年)

・個人的アジェンダ

1.カトリックとプロテスタントの中間項としてのドイツ14世紀神秘主義あるいはウニオミスティカ。

2.ウニオミスティカとコングレガシオン(団体)「霊性の数だけ団体があるのか」

3.ウニオミスティカとオルド(会則)「体験の逸脱は如何に規制されるのか」

4.ウニオミスティカとインスティトゥティオ(制度)「体験はいかに言語化され定式化されるのか」

5.ウニオミスティカとエピスコポス(監督)「多様な霊性、団体、体験、定式を、だれが監督するのか」

6.ウニオミスティカとシノドゥス(教会会議)「監督たちは、どのように最大公約数を取るのか」

7.ボランタリー・アソシエーション(自発的結社)としての教会。「自発性の数だけ団体があるのか」

8.インスティトゥティオ(制度)としての教会。「制度の中で自発性は如何に担保されるのか」

9.「見えざる教会」の交わりと「見える教会」の交わり。

10.「見えざる教会」の交わりは「見える教会」の交わりと無関係であるか、反映されるべきか。

11.「見える教会」の交わりの本質は、ウニオミスティカか、コングレガシオンか、オルドか、インスティトゥティオか、エピスコポスか、シノドゥスか。

12.「見えざる教会」と「見える教会」の中間項としてのウニオミスティカ。

13.ウニオミスティカの言語化と定式化としての「オルド・サルティス」

14.ウニオミスティカの表象としての「シンボル」

15.「シンボル」のリスト。バプテスマ。ユーカリスト。信仰告白。そして「互いに足を洗い合うこと」

16.「イエスは主、と告白する人々が、互いに足を洗い合うこと」これ以上のシンボルが必要なのか、必要でないのか。

17.予定説と予知説の中間項としての「ウニオミスティカ」とその表象としての「シンボル」

18.プロテスタンティズムにおける政教分離。しかし、ウニオミスティカに生きる者は、政治に参加するのか、しないのか。

19.神から委託された「家」としての世界。世界を管理する「家令」の責任。

20.「家令」の責任を分担する三者。国家と社会と教会。

21.ウニオミスティカに生きる者が果たすべき「家令」の責任(エキュメニズム)

22.国家の分限。社会の分限。教会の分限。しかし、それを統合する主体としての「個人」

23.「個人」の主体性の確立としての「われ、ここに立つ」あるいは「ウニオミスティカ」

24.多くの個人の主体性を、その多様性を保障しつつ主権のうちに統合する装置としての「デモクラシー」

25.デモクラシーという、統合する装置の「動力」としての「愛」あるいは「互いに足を洗い合うこと」

26.「互いに足を洗い合うこと」の試金石としての「小さき者たち」

27.「家令」が説明責任を負う相手としての「小さき者たちの王国の王」あるいは「再び戻られる主イエスキリスト」

28.「この者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という王の言葉。

29.家令としての国家の「奉仕」と「この小さき者」

30.家令としての社会の「奉仕」と「この小さき者」

31.家令としての教会の「奉仕」と「この小さき者」

32.この家の多くの家令たちの分担された責任および分担された奉仕としての「エキュメニズム」

33.ウニオミスティカに生きる者が行う、国家の奉仕としての働き。

34.ウニオミスティカに生きる者が行う、社会の奉仕としての働き。

35.ウニオミスティカに生きる者が行う、教会の奉仕としての働き。

36.「すべてが、主イエスキリストのためにする、働きである」

37.その働きの標語。「オラ・エト・ラボレ」(祈れ、そして、働け)

38.ウニオミスティカの前提としての「オルド・サルティス」

39.オルド・サルティスの前提としての「一般召命」すなわち「福音の説教」

40.福音の説教の前提としての「信教の自由」

41.国家と社会と教会を統合する「個人」の主体性の保障としての「信教の自由」





マルコという宣教的実存

・ヨハネマルコ。エルサレムの裕福な信者の子弟。

・その邸宅は、二階座敷として「主の晩餐」と「ペンテコステ祈祷会」に用いられた可能性が。

・ゲッセマネの園での主の捕縛の際に逃げた若者?14:51-52 この逸話の挿入意図。

・バルナバのいとことして、アンテオケ教会の設立に参加?

・タルソのサウロを探し出して協力を求めたバルナバ。

・サウロ(パウロ)、バルナバ、ヨハネマルコの「宣教班」。

・宣教旅行からのヨハネマルコの脱落。ホームシック?使徒13:13, 15:37-39

・宣教のために先へ進む使徒。使命を捨てて家に逃げ帰るマルコ。「逃走」のモチーフ。(あの逸話の挿入意図?)

・原始教団の宣教。
(ア)わざ(しるし&不思議)
(イ)ことば(驚愕して参集した人々への説教)
(ウ)反応(受容or迫害)
(エ)結果(受容の結果としての教会設立。迫害の結果としての離散)

・大執事ステパノへの迫害の結果としての弟子たちの離散。離散先で設立された教会としての「アンテオケ教会」。使徒11:19-21

・散らされた種が実を結んだ「アンテオケ教会」。使徒11:22-26

・その「アンテオケ教会」が、地中海に蒔く福音の種としての「宣教班」の宣教旅行。使徒13:1-3

・原始教団の宣教のただなかに身を置いて、種まきのわざに従事していたヨハネマルコ。

・宣教旅行から逃走することによって自覚されたマルコの「献身と服従」の問題。

・宣教旅行に再献身することによって確証されたマルコの「宣教する実存」としての主体。コロサイ4:10

・マルコ伝の冒頭の提示。「宣教する実存」としてのバプテスマのヨハネ。「宣教する実存」としてのナザレのイエス。「宣教する実存」たるべく召命を受けた四人の弟子たち。1:1-20

・ナザレのイエスによる「しるし&不思議」。1:21-2:12

・ナザレのイエスに対する人々の反応。「受容or拒絶」。4:13-20

・「受容のしるし」としてのツロ・フェニキヤの異邦人の女。7:24-30

・「拒絶のしるし」としてのファリサイ派の律法学者。3:20-30

・拒絶の結果としてのバプテスマのヨハネの獄死と、ナザレのイエスの十字架の死。6:14-29, 14:1-15:41

・原始教団における「イエスの出来事」の信仰告白の定式化。
(ア)死んでよみがえりたもう主イエス。
(イ)天に挙げられ御座に着きたもう主イエス。
(エ)御座から世界を支配したもう主イエス。

・定式化された信仰告白としての「頌栄」。

・信仰告白と共に定式化されたキリスト者の信仰と生活。

・定式化されたキリスト者の生活。
(ア)福音の説教を聴聞し
(イ)信仰告白をし
(ウ)水の洗礼を受け
(エ)教会で聖日の礼拝を守り
(オ)教会維持献金をし
(カ)聖餐にあずかり
(キ)世と区別された生活をする

・「定式化」を拒否するヨハネマルコ。
(ア)復活後の「高挙のイエス」の定式化(天に上り、神の右に着き、聖霊を注ぎ、万物を統べ治めたまい、やがて、再び来たりたもう)
(イ)その「定式化」をあえて避けるヨハネマルコ。
(ウ)ナザレのイエスは定式化され得ない。「あの方は、ここにはおられない」「先に行って待っておられる」「あなたがたはそこで主にお会いする」

・ひとたびは逃げ出した弟子たちを、先に行って待っておられる「宣教する実存」としての主イエス。

・逃げ出し(退落し)主体性を喪失した弟子たち・および・その姿の中に含め描かれているところの「宣教班から脱落したヨハネマルコ」彼自身。

・「宣教する実存」としてのイエスは、先に行って待っておられる。

・かつてひとたび「宣教する実存」となるべく召され、今は退落して主体性を没した弟子たちは、その召された原点の場所(ガリラヤ)において、イエスに再びお会い出来る。

・「宣教する実存」が、退落し、主体性を失い、しかし、その絶望の闇の中で、先に行って待っておられる「主の約束」を聞き、その約束を信じ、その約束におのれの全存在を再びかけて、前に向かって進んで行くときに(すなわち「宣教する実存」としての献身と服従をなすときに)先に行って待っておられる主が、お会いくださる。

・主がお会いくださるのは、原点、すなわち「召命の原点としてのガリラヤ」において、である。1:16-20

・主イエスキリストとお会いする、ということは、時間の彼方としての「再臨」の点にあるのではあるが(時間的再臨)、しかしまた、「宣教する実存」としてのヨハネマルコにとっては、主イエスキリストとお会いする、ということは、「宣教する実存」としてのおのれが、そこから退落し、しかし、「先に行って待っておられる」という主の約束に対する信頼のうちに、献身と服従の決断をなし、そのことによって・そのことにおいて、「宣教する実存」の主体性を取り戻し、そして、前に向かって進んで行った、まさにその進んで行った先において、生起する出来事にほかならない(宣教的再臨)。

・マルコの筆によるのでない、マルコの精神の要約。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に(すなわち「宣教する実存」としての彼らと共に)働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」

・マルコの筆によるのでない、マルコの精神の要約。「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」

・しかし、この要約すらも、すでに、ある種の「定式化」である。

・この定式のうちに、主はおられない。

・しかし、この定式が指し示すところの実存、すなわち、「先に行って待っておられる」という主の約束に対する信頼のうちに、献身と服従の決断をなすところの「宣教する実存」において(をとおして)、主イエスキリストは生きて働いていたもう。

・主は「先に行って待っておられる」と、いまや、告げられている。

・それを聞くおのれ(ヨハネマルコ)は、いま、「宣教する実存」から退落し、没主体性のうちに、沈んでいる。

・主が「先に行って待っておられる」という、その待っておられる地点は、弟子の召命の原点としての「ガリラヤ」である。

・「宣教する実存」たれ、という呼びかけをもって、かつて召し出された、その原点(ガリラヤ)に向かって、いまいちど進んで行くことの「決断」をすることが、「復活の朝」における、新たな召命である。

・その「決断」を求められるとき、「宣教する実存」から退落した没主体性は、みな「おそれおののく」。

・「震え上がり」「正気を失っていた」「恐ろしかったからである」

・それは、かつて「宣教する実存」として生きようとして、失敗した者はみな、「宣教する実存」を、何が、また、どのような出来事が待ち受けているかを、見て、聞いて、知っているからである。

・「口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」「二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」「パウロに石を投げつけ、死んでしまった」「何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込んだ」「足に木の足枷をはめておいた」「暴動を起こし」「家を襲い」「あざ笑い」「法廷の前で殴りつけ」「パウロを殺そうとしていた」 これら「宣教する実存」を待ち受けているもの。Cf.使徒

・この「おそれおののく」ことの中に、決断をなすべきことが、求められる。

・すなわち、主の約束を信じ、再び「宣教する実存」たるべく、おのれの全存在を主イエスにかけるのか。

・あるいは、主の約束を疑い、依然として「宣教する実存」から退落した没主体性のうちに、すなわち「おそれ」のうちに、おのれを留まらせ続けるのか。

・この「決断」を迫られる者は、すべてみな、「おそれおののく」。

・そして、ヨハネマルコは、おそれおののいた。

・ヨハネマルコは、同じ「決断」を、福音書のすべての読者に迫る。

・その「決断」は、開かれており、ひとりひとりに問われている。

・それゆえに、それは「定式化」されることを拒む。

・この「復活の朝」の新たな召命に対して「しかり」の決断をした者らは、あのマルコの精神の要約、すなわち「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」という要約を、おのれの身に生起した出来事として経験し、それゆえに「アーメン」と言う。

・この「復活の朝」の新たな召命に対して「いな」の決断をした者らは、あのマルコの精神の要約、すなわち「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」という要約は、おのれの身には決して生起しなかった、生起し得なかった「死んだ定式」として、残される。それゆえ、その「アーメン」は、唱えられえず、唱えられたにしても、単なる「定式への形式的承認」という没主体性に沈む。

・汝のアーメンは、いかなるアーメンであるか?

主の晩餐の考察

・主の晩餐の元型としての「過越の食事」

・三つの物質:非発酵パン、苦菜、ブドウ酒、小羊のロースト。

・家長が主宰し、家族が食卓を囲む。

・年に一度、過越祭に行う。

・ブドウ酒は、乾燥ブドウを水に浸けてふやかし、すり潰したジュースであることに注意せよ(!)

・苦菜は、レタスまたはパセリ。

・第一回の杯を干し、苦菜を食す。

・第二回の杯を干し、小羊のローストを食す。

・第三回の杯を干し、パンを食す。

・第四回の杯を干し、感謝をささげる。

・第四回の杯は、まず家長が口をつけ、続いて、家族が回し飲みすることに注意せよ(!)

・主イエスキリストは、食卓の主宰者として、第三回の杯の後の「パン」と第四回の「感謝の杯」に、新経綸における意義を付与した。

・すなわち、全人類の罪を贖う主イエスキリストの十字架の死を象徴する「パン」と「杯」という意義である。

・「パンと杯」は、かつて、出エジプトの出来事を想起するために、行われた。

・「パンと杯」は、いまや、主イエスキリストの出来事を想起するために、行われる。

・過越祭から主の晩餐に移行する過程で抜け落ちた「苦菜」と「小羊のロースト」の位置?

・「苦菜」は、その表象が、本体である主イエスキリストの十字架の苦悶のうちに、解消された。

・「小羊のロースト」は、その表象が、本体である主イエスキリストの十字架上の御体(コルプス)のうちに、解消された。

・「本体」が現れた時に、その本体のうちに、取り込まれ、解消される「表象」あるいは「予表」。

・表象が本体に取り込まれ解消されるのであれば、その他の表象についても、同様のことが言えるのか、あるいは、言えないのであるか?

・その他の表象として考えられるべきものとしての「幕屋」「祭司職」「犠牲」「安息日」「割礼」「祭」「契約の箱」「恵の座」「青銅の祭壇」「香炉」「パンの机」「七枝の燭台」「水盤」「庭」「神殿」そうして「パン」と「感謝の杯」さらにはまた「水の洗礼」。

・ある表象は本体に取り込まれて解消され、ある表象は本体が眼前に出現してなお解消されずに残るのか?

・前者と後者の区別は、いかにして、なされるか?

・主が「記念せよ」と命じたことによるのか? あるいは、よらないのか?

・監督が「記念せよ」と命じたことによるのか? あるいは、よらないのか?

・教会会議が「記念せよ」と命じたことによるのか? あるいは、よらないのか?

・主に直結した信徒の自発的な行為によるのか? あるいは、よらないのか?

・「主イエスキリストご自身が、見えざる神の恩恵の唯一の目に見ゆる現れである」とする立場からした場合。この立場は、聖ヨハネの立場であるのだが(神を見た者は誰もいない。ただ、父のふところにいる独り子なる神だけが、神を現した)。

・別の言葉で言い換えれば、「唯一の聖礼典としての主イエスキリスト」。

・あるいは「根源的サクラメントとしての主イエスキリスト」(カール・ラーナー)。

・そうした場合、主イエスキリストのみが唯一の「表象」である、と言い得るか、言い得ないのか?

・主イエスキリストが唯一の真の「表象」であって(それはつまり、受肉者だということなのだが)他のあらゆる「予備的な表象」は、このお方のうちに取り込まれ、解消されるのであるとしたら、いったい、主イエスキリストご自身の他に、いかなる表象が残されるのか、あるいは、主イエスキリストご自身の他に、何も残らないのか?

・主に直結した信徒の自覚に基づいて、ただ主イエスキリストのみを唯一の真の「表象」として生きることを選んだ場合、この決断は、教会秩序の問題であるか、あるいは、霊的生命の問題であるか?

・主に直結した信徒の自覚に基づいて、ただ主イエスキリストのみを唯一の真の「表象」として生きることを選んだ場合、その生き方は、主との直結を強めるのか、弱めるのか、あるいは、いかなる影響も及ぼさないのか?

・主に直結した信徒の自覚に基づいて、ただ主イエスキリストのみを唯一の真の「表象」として生きることを選んだ場合、そして、その生き方が、結果として「世」の生き方とは明らかに区別される場合、その生き方は、別の「表象」と化しているのか、あるいは、別の何物かではなく、ただ唯一の主イエスキリストが、その復活の命をもって、信徒のうちに立ち現れた、ということであるのか? 

・唯一の真の「表象」である主イエスキリストが、その復活の命をもって、信徒のうちに立ち現れるという場合、信徒は単数ではないゆえに、それら一群の人々(すなわち教会)は、主イエスキリストの「世」における(世に対する)「表象」となっているのか、あるいは、なっていないのか?

・そのような意味において教会が「表象」であるならば、教会は、それそのものが聖礼典と呼ばれ得るのか、得ないのか?

・根源的サクラメントとしての主イエスキリスト、そして、根源的サクラメントとしての教会(カール・ラーナー)。

・主の晩餐が祝われるとき、聖変化するのはパンである前に、むしろ、教会である(ハンス・キュンク)。

・教会の聖変化は、世に対しては、ただ、パンを裂くことによってのみ、証しせられるのであるか?

・教会の聖変化は、世に対しては、ただ、互いに足を洗い合うことによってのみ、証しせられるのであるか?

・「あなたがたは互いに愛し合うことのほかに、いかなる借りもあってはならない」

・教会の聖変化は、世に対しては、ただ、愛し合うことによってのみ、証しせられるのであるか?

・教会は、互いに愛し合うという義務のほかに、いかなる義務を負うか、あるいは、負わないのであるか?

宣教150周年に関する覚書

1825(文政8)外国船内払令

1828(文政11)シーボルト事件

オランダ商館付の医師シーボルトが日本地図を持って帰国しようとしたことが発覚。地図を渡した関係者が処罰される。

1837(天保8)モリソン号事件

日本の漂流民を乗せた米船籍の非武装商船を、日本側が英国軍艦と誤認して、浦賀沖で砲撃した。

1842(天保13)薪水給与令

アヘン戦争で清が惨敗し、南京条約が結ばれたことに驚愕した日本側が、遭難した外国船に限って救助することを認めた。

1854(嘉永7)日米和親条約

下田と函館を開港し、米国船に薪水を補給し、漂流民を引き渡し、下田に米人居留地を設置し、最恵国待遇を米国に行うとする条約。これにより、鎖国体制が解かれる。

1858(安政5)日米修好通商条約

横浜、長崎、函館、新潟、神戸を開港し、下田を閉鎖する。米国に領事裁判権を与える。江戸と大阪を開く。自由貿易を開始する。両国の協議で関税率を決定する。内外貨幣を通用する。最恵国待遇を米国に行うとする条約。 同様の条約を英仏蘭露とも結ぶ(安政五カ国条約)。その結果、横浜、神戸、新潟、長崎、神戸、築地、川口(大阪)に治外法権の外交人居留地が設置される。外国商社と共に宣教師が入って教会と学校を設立。多くの著名なミッションスクールの創設地となる。

1859(安政6)宣教師来日の年

ジョン・リギンズ(1829-1912)米聖公会
チャニング・ウイリアムズ(1829-1910)米聖公会、日本聖公会初代主教
ジェームズ・カーティス・ヘップバーン(ヘボン)(1815-1911)米長老教会、医療宣教師、ヘボン塾(バラ塾)、明治学院初代総理
サミュエル・ロビンズ・ブラウン(1810-1880)米オランダ改革派教会、新約聖書翻訳委員、ブラウン塾
デュアン・シモンズ(1834-1889)米オランダ改革派教会、医療宣教師、横浜中病院(現横浜市大病院)医師
ギード・フリードリーン・ヴァーベック(フルベッキ)(1830-1898)米オランダ改革派教会、旧約聖書翻訳委員、明治学院理事

※米オランダ改革派教会=現RCA(Reformed Church in America)

4000人の給食、5000人の給食は、、、、

「愛餐」だったのではなかろうか?

なんとなれば、、、、

・主イエスキリストを主人とする食事であり

・主イエスキリストがまずパンを取って感謝の祈りをささげ、次に、これを裂いて、分配し、さらに、魚についても同じようにされたからであり

・しかも、父なる神は、この食事の交わりを心から祝福しておられることを、「しるし」としての奇跡によって、目に見えるかたちでお示しになり

・この食事の交わりから漏れた者は、その場に居合わせた者たちの中で、ただの一人もなく

・すべての者が、信者も不信者も、バプテスマのヨハネの洗礼を受けた者も受けていない者も、イエスの弟子たちによる洗礼を受けた者も受けていない者も、ユダヤ人も異邦人も、律法学者も民衆も、つまり、ほんとうにすべてのものが、みな食べて、満腹したからである。

・さて、この食事は、人類に対する神の愛の御心が目にみえるかたちで表わされたものとしての「サクラメント」に他ならないが、これを「愛餐」と呼ぶのは当然として、「聖餐」と呼び得ないのは、なぜか?

・この食事の交わりの中心に、いと聖なるお方、すなわち、われらの主イエスキリストのいましたもうのであれば、これを「聖餐」と呼び得ぬはずがない。

・それにしても、いと聖なるお方が、感謝の祈りをささげてパンを裂き、配られたのであるから、これを「ユーカリスト」(感謝の食事)と呼び得るのは、あたりまえである。

六日間創造説

・文字通り一日24時間の「六日間創造説」を採用するのなら

・再臨のキリストの千年間の統治も、文字通り一日24時間一年365日の「千年王国」と解するべきなのであって

・六日間は文字通りだと言いながら、千年間は象徴的だと言うのは、まったく理解できない。

新エルサレムに安着した暁には

・王の王、主の主なる御方に拝謁したあと、真珠門脇の「パーリー・ゲートカフェ」に直行しよう。

・そこで、先客たちに、こう尋ねよう。「西田幾多郎先生は、ここへ来ておられますか、どうですか?」

・「いえ、見たことがありませんね」という返事ばかりだったとしたら、小生は、しばし、沈思黙考しよう。

・「ああ、来てますよ。ほら、あそこに腰掛けておいでです」という返事があったとしたら、小生は、この機会を逃さす、先生にお目通りを願おう。

・ひととおり挨拶が済んだところで、小生は、先生にこういう質問をしてみたいと思う。

・「先生。先生がお書きになった『世界新秩序の原理』という御論ですが、あれを読んで、大概飲み込めたのですけれども、ひとつ、ひっかかるところがあるのです」

・「先生は、あの中で、世界が具体的に一となると云うことは各国家民族が何処までもそれぞれの歴史的生命に生きることでなければならない。恰も有機体に於ての様に、全体が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全体が一となることである。私の世界と云うのは、個性的統一を有ったものを云うのである、とおっしゃっている。おっしゃることは、よくわかるのですが、しかし、具体的に考えれば、先生があれをお書きになった時点において、朝鮮の主権は日本に併呑され、朝鮮の個人は姓氏改名され、朝鮮の国語は日本語に置換されていたわけです。これは、どう考えてみても、朝鮮という民族の個性を没滅して、それが歴史的生命に生きることを妨げるものではありませんか? つまり、先生の御論に対する具体的な矛盾であるわけだ。先生は、その矛盾を矛盾として受け止めておられたのですか? あるいは、先生の御論においては、その矛盾は、どうやって超克・解消されることになるわけですか? そこのところを、ぜひお聞きしたいと、ずっと思っておりました。ここは、永遠に時間がありますから、どうぞよろしくお願い申し上げます」

ヨハネ教団における聖餐

・<<伝統的な意味におけるサクラメント主義を認めることは、何れにせよヨハネの文脈が許さない>>!(シュルツ)

・ヨハネは何を批判したのか?

・すでに初代教会において形骸化していた聖餐への批判。

・具体的には?

・形骸化した聖餐に対するパウロの批判(コリント書)を参照せよ。

・「キリストのからだ」である教会、すなわち、新しい契約の共同体である教会の交わりを、可視的に表現する手立てとしての聖餐。

・「キリストのからだ」をわきまえないで聖餐を食する、とは? 新しい契約の共同体である教会の交わりを、損なう者が、聖餐を食することによって、聖餐が可視的に表現しようとするところの実質を、無意味なものとしてしまうこと。

・「損なう」とは? 愛のない態度によって、キリストの肢体である兄弟姉妹を、苦しめること。

・コリントの共同体の「愛のない態度」とは、何か?

・人々は、各家庭から、聖餐の物質を、教会の礼拝に持ち寄った。

・豊かな人々は、祝福の祈りをして、すぐに聖餐の食事を始めた。そして、すっかり食べて、満腹し、感謝した。

・貧しい人々は、自分の家から持って来れるものがないために、いつまでも聖餐の食事を始めることが出来ず、ただ、隅の方に居て、他の人々が食べたり飲んだりしているのを、空腹を抱えながら、じっと見つめていることしかできなかった。

・豊かな人々は、何か配慮をしたのか?

・貧しい人々のために、まったく何も配慮をしなかった。これが、コリントの共同体の「愛のない態度」である。

・こうして、聖餐が可視的に表現しようとするところの実質、すなわち、キリストのからだなる教会の交わりにおいて、貧しい人々が切って、捨てられた。

・聖餐の席から切り捨てられた人々は、キリストのからだの交わりから切り捨てられた肢体を、可視的に表現している。

・聖餐に与ることが出来ず、空腹のままの人々が排除されるとき、そのような聖餐が表わす実質においては、キリストのからだが傷つけられ、損なわれているのである。

・それゆえ、「キリストのからだを損なうことになる」とパウロは警告した。

・キリストのからだなる教会の交わりの本質は、それでは、何であるか?

・「互いに足を洗い合うこと」すなわち「互いにへりくだって、仕え合うこと」にほかならない。

・キリストのからだなる教会の交わりの本質を表現するため、キリストは、手ぬぐいを腰にまき、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗われた。

・キリスト者が、お互いにへりくだり、お互いの足を洗い合うことが、キリストのからだの交わりの本質である。

・身を低くして、かがむこと。ひざまづくこと。最も汚い部分に触れること。触れて汚れを身に受けること。水で洗うこと。仕える者の立場として、洗うこと。ていねいに洗うこと。やさしく洗うこと。

・仕える者が洗うとき、足をたたいたり、つねったり、ふみつけたり、「汚い足だ」などと言い放ったりは、しない。

・キリスト者が、お互いにへりくだり、お互いの足を洗い合うという、キリストのからだの交わりの本質が実行されるのは、聖餐の物質の媒介によるのではなく、キリスト者が、身を低くし、かがみ、ひざまずき、最も汚い部分に触れ、触れて汚れを身に受け、水(聖霊を象徴するもの)で洗い、しかも、仕える者の立場として、ていねいに、やさしく洗うこと。

・このような愛の実行があるところにおいては、もはや、形骸化した聖餐の実行は、固執する必要がない。

・それゆえにこそ、ヨハネは、聖餐制定句も、その場面をも、福音書から省略したのか?

オールド・パースペクティブにおける「義」の理解

・佐竹明『ガラテヤ人への手紙』新教出版社、1974年、pp.210-215.

・「義は、もともと旧約・ユダヤ教の伝統では、二人格間に成り立つ正当な関係を指し示す言葉であり、パウロも基本的にはこの理解をうけついでいる」

・「したがって、パウロが義と認められると言う場合には、それは、神との正しい関係に入ることを許されることを指しており、実質的には神の支配下におかれることに他ならない」

・「ところで、神の支配下にあるものが、罪ないし律法の支配下にとどまり続けることは、不可能である。しかし、このことは自動的にそうなるというのではない。生まれながらの人間として持っていた信徒の本性そのものが、義とされるに際し別のものにかえられたのではないからである」

・「むしろ、信徒は神の支配下に移されることによって、新たに、今までのように罪に仕えてではなく、義に仕えて生きることを求められていることとなる、という方がいい(たとえばロマ6:11ffを見よ)」

・「しかしそれと同時に、人間がこの要求を独力で実現にもたらさなければならないとされているのではない点にも注意を払う必要がある。むしろ、義に仕えること自体が、神によって信徒に対して新しく可能とされるのである。これが神の支配下におかれるということの意味であり、あるいは、義とされるということの意味である」

・「義認についてもう一つ問題になるのは、パウロが「義とされる」ことを現在のことと考えているのか、将来のことととらえているのかという点である。結論から言えば、これはそのいずれとも一方的に決定することはできない。すなわちパウロは、一方では「かつて」とちがう「今」の時の決定的新しさを強調し、その特長を「律法なしに神の義があらわされた」ことの中に見出すが(ロマ3:21)、他方では、「義とする」ないしは「義とされる」を未来形で使う例も少なくない(ロマ3:30他。ロマ5:19; Iコリ4:4; ガラ5:5fを参照)」

・「そこには、現実のこの世にある限り、信徒といえども完全なものとされているのではないという理解が反映していよう。このように、義認の時点をパウロが一意的に明確にしていないという事情、換言すれば、彼がこの問題を論じることに興味を示していないという点は、われわれの箇所についてもあてはまる」

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・脚注「ラグランジュは、分子句でδικαιουται(義とされる)という現在形が使われていることを論拠に、ここでは最後の審判での判決が考えられているのではなく、実際に現在与えられている義が考えられているとするが、しかし現在形は一般的法則のようなものを書くときにも用いられるから(Bultmann, Exegetica 473頁がこの箇所の現在形を「時間的意味を持っておらず、論理的、ないしは格言的な表現」としているのを参照)、現在形の使用は決定的論拠にはならない。なお、ラグランジュは、理由句での未来形は論理上の未来形となっている」

・「ただ、次の17節の発言から見ると、どちらかといえば将来的と捉える方に比重がかかっているということはできよう」

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・脚注「Bultmann, Exegetica 473-474頁は、「義とされる」が未来形で使われている大部分の例は時間的な将来のことを指しているのではなく、この未来形は論理的ないしは格言的な性格のものとするが、しかしこの17節と5:5およびロマ5:19では将来的義認が語られているとしている」

・「なお、ユダヤ教でも、義とされることの時点の把握の仕方については一様ではない。義とされるのは将来的にとらえられることも、現在的にとらえられることもある。従って、われわれはこの点に何らかのパウロ的特長を見出すことはできないであろう」

・「それでは、そのような「義とされる」ことは何を根拠になされるのか。ユダヤ教では、神の意志の具現である律法の遵守を度外視しては、このような「義とされる」ことは考えられ得なかった。「律法のわざ」は神の要求に応える聖なるわざであって、それは人間が恣意的に行う、人間自身のわざとは正反対の性格を持つと見なされた」

・「これに対し、パウロは「律法のわざ」を却ける(ロマ3:20他を参照)。それはなぜか、彼は、「律法のわざ」は必然的に、神の前で誇り(ロマ4:2)、神に向かって自らの権利要求を提出するための手段と化すと考える。「律法は霊的」であっても、「わたしは肉的であり、罪の下に売られている」からである(ロマ7:14)」

・「われわれの個所との類似の発言では、「律法のわざ」に相当する表現として、「律法」(ロマ3:21; ピリ3:9)、「わざ」(ロマ4:2; 9:32)が使われることがある。このことは、「律法」も「わざ」も、この場合には似通った機能を果たすものとしてとらえられていることを示していよう」

・「もっとも、律法の方は、「律法にあって」という使い方もなされることから明らかなように(ガラ3:11; 5:4)、一つの支配勢力としての性格も持っており、これに対し「わざ」という表現では、具体的な行動という側面に重点がかかる(それが常に複数形で使われる点にも注意)。「律法のわざ」はそれゆえ、律法の要求を行うわざであると同時に、律法によって可能とされ、促進されるわざを指すと見るのがよかろう」

・「義とされることは律法のわざにはよらないと、先ずユダヤ主義者たちがユダヤ教的伝統に従って抱いている理解を却けたパウロは、それに続けて、義とされることは「キリスト・イエスの信仰」によると、積極的な形での主張に転じる」

・「このように信仰と律法のわざと対立的にとらえることによって、パウロはユダヤ教の律法理解ばかりでなく、その信仰理解をも却けたこととなる。というのは、ユダヤ教では信仰が律法のわざに対立すると考えられたことは決してなく、それはむしろわざを補うもの、さらにはそれ自体わざの一つと見なされていたからである。また、神を信じるという場合にも、神の意志の具現としての律法が視野から消えることは全く起こりえず、むしろ時には律法に対する信仰も語られるほどであった」

・「「キリスト・イエスの信仰」が「律法のわざ」と対置されることから明らかなように、「信仰」は「わざ」の一種ではなく、それと対立的な性格を持つ。すなわち、わざによる生がもっぱら人間の働きに依存する生であるのと正反対に、信仰による生は、キリストにすべてをゆだね、自分の生の唯一の根拠を、キリストにおいて現実となった神の恵みに求めることにおいて成立する」

ブログ・アクション・デイ

キリスト者の完全についての覚書

・ジョン・ウェスレー、1767年1月27日

・以下、『ウェスレー著作集』第7巻、pp.455-456より転載。

これは、キリスト者の完全、及び、それをうけとる仕方とその時について、今朝私の心に浮かんだ考えであるが、これを書きとめておくことは役に立つと信じる。

1.私が言う完全とは、神及び隣人に対する謙遜にして柔和な、忍耐強い愛であって、われわれの気質、言葉、行動を支配するものである。

部分的にせよ、全体的にせよ、その完全から堕ちることがあり得ないというものではない。従って、部分的にではあるが、堕ちることの不可能性を表現したり暗示したりしている讃美歌集の数ヶ所の表現を私は取り消す。

そして、私はそれに反対するのではないが、「罪のない」という表現を主張しないことにする。

2.それをうけとる仕方について。私はこの完全が、いつも信仰という行為だけによって、瞬間的にたましいの中に行われるものであることを信じる。

しかし、私は、この瞬間に先行し、また、後続する漸進的な働きを信じる。

3.それをうけとる時について。この瞬間は、一般に、死の瞬間であり、たましいが肉体を去る直前の瞬間であると信じる。しかし、それがその十年、二十年、あるいは、四十年前であるかも知れないと私は信ずる。

私は、それが普通、義認の後、多くの年月を経てからであると信じる。しかし、義認後、五年以内、あるいは、五ヶ月以内であることもある。これに反対する決定的な論証を、私は知らない。

もしそれが、必ず義認後の長年月後であるとすると、それが何年であるかを私は知りたいと思う。

Pretium quotus arroget aunus? (めぐり来る年月の如何にせば真価を問うや?)

また、完全にされた時と死との間に、何日、何ヶ月、何年が存在すると、人は言いうるのであろうか。それは義認からどれだけ離れていなければならないのだろうか。また、死とどれだけの近さであろうか。

ロンドン、1767年1月27日
ジョン・ウェスレー