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神学的断想

潜在意識に頑固にこびりついていたのは、なにかまだ説明のついていないものがあるという表現不能の確信だった。<チェスタートン>

神義論についてのメモ

・神義論とは、世界になぜ悪が存在するのか、という問いである。

・さて、世界の根源が悪であったなら、世界内存在によって、悪は悪として認識され得るか? 答え「されない。その世界においては悪が唯一の常態であるから」

・ところで、世界内存在であるわれわれは、一部の哲学的立場を別にすれば、悪を悪として認識している。すると、世界の根源は、必ずしも悪ではなかったかもしれない、ということになる。

・では、世界の根源が善であると仮定して、なぜ善なるものから悪が生じるのか。これは、矛盾である。

・この矛盾を究明しようとする世界内存在の営為が、宗教である。

・第一の立場。矛盾は錯覚に過ぎず、事物の本然においてはなんら矛盾は存在しない、と観る。

・第二の立場。あらゆる事物は、それに相対するところの他者に限界づけられることでもって、事物たり得ている、つまり、矛盾していることが存在の自己同一性であり、矛盾は永遠の常態である、と観る。

・第三の立場。矛盾は、統一性における多様性から発して、多様性におけるところの個別性を通って、多様性における統一性へと向かっている、つまり、矛盾とは、存在から発して、存在を乗り越えて、存在へと向かって行くところの運動である、と観る。

・聖書の使信は、第三の立場である。三位一体の神が世界を創造し、世界内存在はその多様性において個別性を獲得し、しかも世界内存在は、その個別性において、その個別性をとおして、三位一体の神の統一性へと向かって動いて行く。この運動が救済史であり、その救済史を下部構造として持つところの上部構造が歴史である。

・聖書の使信は、また第二の立場でもある。世界内存在がその多様性において個別性を獲得するという過程においては、ある世界内存在が、それに相対するところの他者としてのもうひとつの世界内存在に限界づけられることでもって、初めてその個別性を獲得することができる。この限界づけられるということが、世界内存在の身体性であり受苦性である。

・聖書の使信は、また第一の立場でもある。世界内存在が、他者による限界づけによる身体性と受苦性を引き受けることによって、個別性を獲得するとき、その個別性において、そうして、その身体性と受苦性とを通して、世界内存在は三位一体の神と結ばれるからである。なぜなら、個別性ということ、身体性ということ、受苦性ということの中に、世界内存在と三位一体の神との「結合点」が存在しているからである。その結合点とは、受肉して身体性を獲得し、その身体性において受苦し、その受苦において三位一体の神の統一性としての「愛」を体現した主イエスキリストである。あらゆる世界内存在が、この「愛」という目的にすべて引き寄せられるとき、本然において矛盾が無いことが明らかになる。

唯一の契約、唯一の聖定としての主イエスキリスト

・時間を超え出たところ、時間の始源の彼方、時間の終焉の彼方において、永遠から永遠に存在したもうところのお方。すなわち、御父と御子と御霊。

・御子は、その永遠において、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくして、そのまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかっていたもう、すなわち、永遠の命の横溢であるところの御霊に、限りなく満たされていたもう。

・御父のお心は、これである。「御子が、その永遠において、御父にまったく従順して、そのことのゆえに、永遠の命の横溢である御霊でもって、御子を限りなく満たすこと」

・この御父のお心が、唯一の、永遠の、聖なる定めである。

・しかも、御父のお心は、「まことに神であり、まことに人である」御子を得て、そうして、そのような御子のまったき愛による、まったき従順を得て、そのようにして御子を、すなわち「まことに神であり、まことに人である」御子を、御霊で限りなく満たすことである。これが、神の聖定である。

・この「まことに神であり、まことに人である」御子のうちに「人」が包含されている。すなわち、御子のうちに人間が、すべての人間が包含されており、御子のうちに、わたしたち人類が、このわたしたちが包摂されている。

・御子は「まことに神であり、まことに人である」お方として、ご自身のうちに包摂したもうところの、すべての人間を、ご自身の一切において、ご自身の一切とともに、御父のお心へとささげつくしたもう。

・すなわち、御子は、ご自身において、全人類を聖別して、ご自身の御父へのまったき従順のうちに、すべての人間を従順へともたらしたもう、その従順へともたらされたすべての人間とともに、また、御子は、ご自身の御父へのまったき愛のうちに、すべての人間を愛へともたらしたもう、その愛へともたらされたすべての人間とともに、永遠の命の横溢である御霊に、限りなく満たされていたもう(むかしも、いまも、のちも、とこしえに!)

・御父のお心は、御子を、すなわち、神であり人でありたもう御子を、得ることであり、そのような御子を永遠に得ることであり、そのような御子、神であり人でありたもう御子を、御霊で限りなく満たすことである。

・それはまた、御子を、すなわち、神であり・また・人として全人類をそのうちに包摂していたもう御子を、御父が得ること。また、御子を、すなわち、神であり・また・人として全人類をそのうちに包摂していたもう御子を、御霊で限りなく満たすことである。

・この御父のお心が、唯一のお心であり、永遠のお心であり、不変のお心である。この御父のお心が、神の聖定である。そうして、これが、唯一の契約、永遠の契約である。ほかの契約には実体は無い。ただ、この唯一の契約、永遠の契約の、ほかの契約は影であるに過ぎない。

・この御父のお心の発露したものが、人間の創造であり、それを補完し、それに従属するものとしての宇宙の創造である。

・人間の創造は、御父のお心の枠の中において、その枠の中においてのみ、行なわれた。すなわち、神であり人でありたもう御子において、その御子よりまったき愛を得て、その御子を限りなく御霊で満たさんとする、その御父のお心の枠の中において、人間の創造が行なわれた。

・すなわち、御子を得るという御父のお心の枠の中において、人間の創造が行なわれた。それゆえに、人間の創造は、あるいは、それを補完し、それに従属する宇宙の創造は、ただ御子のために、ただ御子を目的として、ただ御子を得るために、ただ御子において、ただ御子によって、行なわれた。創造という神の行為は、御父のお心という大括弧の中に置かれており、かつ、その大括弧の中の御子という括弧の中に置かれている。

・こうして、人間の創造の目的は、あるいは、それを補完し、それに従属する宇宙の創造の目的は、徹頭徹尾、ただ御子であり、ただ御子のためであり、ただ御子のみ、である。

・創造された世界が、あるいは、創造された人間が、この枠、すなわち、御父のお心という枠から、離れてあること、あるいは、外に出てあることは、あり得ない(離れるということは不可能であるし、また、離れるということは、創造されて「ある」ことをやめて、無に帰するということである)なぜなら、創造は、御父のお心という枠の中で、すなわち、御子イエスキリストにおいてのみ、行なわれたものであり、行なわれているものであり、行なわれてゆくものだからである(キリストは、むかしも、いまも、変わりたもうことなし!)

・このようにして、創造された世界は、御父のお心に始点を発している。すなわち、御父が御子のまったき愛を得んとする、そのお心のうちに、創造された世界が始まっている。そうして、創造された世界は、御父のお心の完全な充足へと方向付けられている、すなわち、御子が、御父へのまったき従順であるところの、あの愛、あのまったき愛、十字架において頂点に達したあの愛をささげたもうて、御父より永遠の命の横溢である御霊の限りない満たしを受けたもうという、完全な充足へと、方向付けられている。これが、創造された世界の終点である。この創造された世界の始点は、時間の始源の彼方にあり、この創造された世界の終点は、時間の終焉の彼方にあって、この始点と、この終点との間において、創造された世界が、創造されて「ある」

・この始点と、この終点とを結ぶのが、救済の歴史であり、その救済の歴史を下部構造に持つ上部構造としての「歴史」であり、万物は、この始点から、この終点へと、運ばれて行く。御父が御子のまったき愛を得て御霊をもって満たさんとする、その御父のお心が、万物を、この始点から、この終点へと、運んで行く。

・御父のお心が、この創造された世界の始点であり、御父のお心の満足が、この創造され世界の終点であり、御父のお心の実現が、この創造された世界の中に突入して生起した、御子の受肉である。すなわち、御子が「まことに神であり、まことに人である」お方として、御父のお心にご自身をささげつくされた、そのようにささげつくすことによって成った、あの受肉の出来事である。

・この、御子がまったき愛のうちに、まったき従順をもって、ささげつくすことが、ひとつの面において、受肉であり、このささげつくすことが、もうひとつの面において、十字架であり、このささげつくすことが、もうひとつの面において、復活であり、このささげつくすことが、もうひとつの面において、あの聖霊の降臨である。

・御子が、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくして、そのまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかっていたもう、すなわち、永遠の命の横溢であるところの御霊に、限りなく満たされていたもう。この永遠の神の聖定。

・御子が、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくす行為としての「受肉」

・御子が、ご自分を超え出て、ご自分の一切を、御父のお心へとささげつくす行為としての「十字架」

・御子のまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかってあることとしての「復活」

・御子のまったき従順であるところの、まったき愛において、永遠の命の横溢にあずかってあることとしての「聖霊降臨」

・この神の聖定において、われわれ人間は、神であり人でありたもう御子のうちに包摂され、その御子にあって、その御子のまったき愛において、その御子のまったき従順を通して、われわれ人間が、御父のお心へとささげられる。すなわち、われわれ人間が、御子の受肉のゆえに、われわれ人間が、御子に結ばれて、われわれ人間が、御子のうちにあって、あの十字架へともたらされ、あの復活へともたらされ、あの聖霊の降臨へともたらされる。

・この神の聖定が、永遠の契約であり、この神の聖定は、まったく御子イエスキリストであり、御子イエスキリストご自身が、神の聖定であり、御子イエスキリストご自身が、唯一の永遠の契約である。

・ほかのすべての契約には、実体はなく、ただこの御子イエスキリストが、永遠の契約として、契約の実体を成し、ほかのすべての契約は、ただこの御子イエスキリストを指示しているのであり、ただこの御子イエスキリストへとわれわれを連れて行こうとしている案内なのであり、ただこの御子イエスキリストを描出しようとするところの影であるに過ぎないのであって、この唯一の契約であり、この唯一の聖定であるイエスキリストご自身を離れては、ほかのいかなる契約も存在し得ない。

キリストの王国

・聖句「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」ペトロ後書3:22

・主イエスキリスト、世を治めたもう。「キリストの王国」

・主は、恩寵によって、世を治めていたもう。

・恩寵とは、主が、諸力によって殺され、三日目に復活することによって、諸力を打ち破り、諸力をご自分に服させられた、その諸力を使役して世を治めたもう、という恩寵である。

・力を捨てて勝利された主が、打破された力を使役して、世を治めたもう。

・すべての力には、十字架の印が刻まれている。

・主が世を治めたもうのは、福音によって人々をご自身に招くためである。

・招きの時が閉じられる日まで、すなわち、主イエスキリストの再臨の日まで、主は、恩寵によって、世を治めたもう。

・世の諸力は、すべからくこれ、キリストのしもべ、である。

・世の諸力は、人間に秩序ある安寧な生活を保障する限りにおいて、その務めを果たすことが出来る。

・世の諸力は、人間に秩序ある安寧な生活を保障できなくなった場合、すなわち、福音の召命を人々が聞いて応答することを不可能ならしめるような場合、その務めから離反しているのである。

フォイエルバッハ問題

・ヘーゲル → ヘーゲル左派/フォイエルバッハ → マルクス/エンゲルス

・フォイエルバッハによる宗教批判。

・人間と身体性とを同一視。

・人間とは他者によって限界づけられている存在である。

・限界づけられているもの=身体性

・限界づけているもの=他者

・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)ことによって自らを自らたらしめる(主体化する)もの=実存

・限界づけられていることによって不可避的に経験せしめられる苦痛=人間の受苦性

・「人間は身体である。ゆえに、人間は苦しむ」 人間存在がその最初から最後まで終始一貫して・しかも・不可避的に負わせられている受難としての十字架。人間は本来的に苦しむ存在である。

・苦痛から逃れるために人間が行なうところのたくらみ。

・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体は、そうすることによって、おのれのうちに「内在する客体」を保有するようになり、「この・対象化」によって、おのれを外部から限界づけているところの、ほんとうの他者に通じようと試みる。(毛沢東『矛盾論』を参照せよ)

・主体が「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」を、おのれを「補完する存在」として取り込もうとする、たくらみ、もしくは、志向性。それが「理性」である。(これは、正・反・合の弁証法的展開であり、ヘーゲルの流れである)

・苦難から逃れるために人間が行なうところのたくらみ、としての「理性」あるいは科学、もしくは、身体性(自然)の征服・制圧・支配・管理。

・苦難から逃れる為に人間が行なうところの、もうひとつのたくらみ、としての「宗教」

・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体=人間=の「投影像」としての主イエスキリスト。

・十字架につけられた主イエスキリストは・われわれの・本然の姿の・投影である。

・そのイエスキリスト・のみ・を拝み、そのイエスキリストに・似た者に・なる、ということは、結局のところ、「人間が人間になる」つまり「わたしが本然のわたしになる」ということに過ぎない。

・主イエスキリストに・似た者に・なる、つまり、「人間の神化」は、とどのつまり、人間が人間として人間の身体性および自然を征服・制圧・支配・管理することについての、全面的肯定を述べているに過ぎない。

・「限界づけられていることを自らのうちに引き受ける」主体としての受難の主イエスキリスト、および、十字架を担う主の弟子たち。

・「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」とされたところの「補完する存在」としての「聖霊」

・この「聖霊」によって、通じ合えるところの、外部にいる「ほんとうの他者」としての「父なる神」

・かくして、三位一体の神すらもが、人間が人間を描いたスケッチに過ぎない。

・苦痛から逃れるために人間が行なうところの「たくらみ」としての科学と宗教は、たくらみとしては、双方本質的に同じであり、変わるところがない。ただ、双方の用いる言語が、数学的であるか、宗教的であるか、の表現方法の違いにしか過ぎない。

・人間が人間としての身体性および身体性の延長としての自然(それらは、自己のうちに内在する客体、すなわち、あの・対象化された「像」において その「像」を媒介して、把握されるところの自然である)は、「矛盾の解消」の過程におかれ、「人間化」の過程におかれ、「同一化」の過程におかれ、「止揚へ」の過程におかれ、「客体と主体の融合一致」の過程におかれている。

・その弁証法的な過程が目指すところは、人間が、人間の身体性および自然を、征服し、制圧し、支配し、管理することに、向けられている。

・科学と宗教の「完全なる同根」!

・科学も宗教も、自然を征服し、制圧し、支配し、管理するために、人間によって使役されるところの道具(ツール)に過ぎない。



それでは、われわれキリスト者は、フォイエルバッハに、如何に答えるべきか?

・アスランは飼い慣らされたライオンではない。死は、すなわち、人間を限界づける他者として最強の力をふるって、受苦性と同義であるところの身体性を、粉々に破壊してしまうところの、ほとんど絶対的な他者である。しかし、アスランは、死を打ち破り、復活なさった。

・アスランは、自然を征服し、制圧し、支配し、管理することができる。彼は王として死に、王として復活し、受苦性と同義であるところの身体性を、復活へともたらした・つまり・永遠不滅のものとした。

・その一方、われわれはだれも、アスランを征服し、制圧し、支配し、管理することは、できない。

・だれも、アスランの死骸を(つまり、あの・対象化によって、客体化されたところの「神」を)「客体」という箱・すなわち「墓」の中に、ずっと閉じ込めておくことは、できない。

・「あのかたは、ここにはおられない」!

・だれも、復活のアスランを墓(つまり、あの・対象化という墓、あの・客体化という墓)の中に閉じ込めておくことができず、三日目にアスランは復活して、そこから抜け出たもうた。

・問い「アスランは人間の像であるか?」 

・答え「アスランは人間の像ではない、と考えられる」

・けだし、人間を人間たらしめているものは、その身体性であり、その受苦性であり、人間は苦痛から逃れる為に、「内在する客体」において/を媒介として、身体性/自然を征服し、制圧し、支配し、管理しようと「たくらむ」のであるが、その「自然の征服」は、宗教では、受肉し十字架にかかり復活した主イエスキリストによって推進され、かつ、科学では、主体と客体の間の矛盾を超え出てゆく科学的実験と、自然をコントロールする道具としての科学的技術によって推進される。

・そのイエスキリストは人間の「像」である、と言われている。しかし、イエスキリストは、墓(客体化)によって、征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得なかった。

・ところで、キリストが人間の「像」であるならば、その論理的帰結は、人間はキリスト同様、客体化によって征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得ないことになる。

・最後の問い「征服され得ないものが、征服する、というとき、その征服され得ないものが、その征服する対象であるところのものと、同一である、ということが、あり得るか?」(常勝のドイツ軍が勝利する、というとき、その常勝のドイツ軍が、戦いで敗北した相手であるところのドイツ軍と、同一である、ということが、あり得るか?)

・「あり得ない」

・これをもって、フォイエルバッハへの反駁は、終わった。



宣教と霊的形成

・神の創造の目的。「ご自分のかたち(イマゴ・デイ)似せて人を造り、これを神の嫡子とするため」

・創造の目的の成就としての主イエスキリスト。「神が人となりたるは、人が神となるため」(アタナシウス)

・「神化」(テオーシス)としての霊的形成(スピリチュアル・フォーメーション)

・私が他者(神と隣人)に対して自己譲与するという「十字架につけられ復活した主イエスキリスト」としての「イマゴ・デイ」

・「人がその友のために命をすてること、これより大きな愛はない」「神は愛である」

・神からの愛としての、主イエスキリスト。

・神への愛としての、主イエスキリストに結ばれたキリスト者の歩み。

・「神への愛」のバロメーターとしての「隣人への愛」

・愛あるところに神あり(Ubi amor est, Deus ibi est)

・隣人のあるところに神あり、神あるところに隣人あり。

・「最も小さな隣人」たちのうちに隠されている、主イエスキリスト。その主イエスキリストによる「最後の審判」

・神の宣教の目的。「アダムの末裔が、十字架につけられ復活した主イエスキリストという『イマゴ・デイ』において回復されるという、福音の召命」

・この召命は、「最も小さな隣人」たちのうちに隠されている、主イエスキリストを認めて、これに仕えるようにとの召命である。

・私の自己譲与としての「小さな十字架」

・小さな十字架を担って主イエスキリストに従うとは、小さな釘によって小さな十字架に私が打ち付けられて、痛む経験である。

・主イエスキリストの御足跡をたどり、私もまた「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)において、つまづき倒れる経験である。

・主が、私の小さな十字架を、すでに担っていてくださったことを知る経験である。

・小さな釘によって小さな十字架に打ち付けられて、痛む経験の中に、痛みたもう主イエスキリストが、静かに臨在しておられるのを知る経験である。

・出会う隣人の数だけある「小さな十字架」

・聖パウロの宣言。「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」 聖パウロにとって、キリスト以外のいかなる益もないのであるからして、この宣言は、「生きることはキリスト、死ぬこともキリスト」にほかならない。

・無数の小さな十字架が飾られた「森の古き聖堂」としての、この世界(ロシア正教に伝わる寓話)

・「森の古き聖堂」の中に飾られた、無数の小さな十字架のうちより、おのれの負うべき十字架を見出して、静かに担うこと。それによって、変えられる私。それによって、創造の完成へと近づく世界。

・「宣教」すなわち、万人が「森の古き聖堂」の中に進み入り、無数の小さな十字架のうちより、おのれの負うべき十字架を見出して、それを静かに担うようにとの、万人に対する召命の説教。

・この「宣教」の結果、福音の召命に応答した者は、主イエスキリストという「イマゴ・デイ」において、神の似姿へと回復される。すなわち、私が他者(神と隣人)に対して自己譲与するという「十字架につけられ復活した主イエスキリスト」としての「イマゴ・デイ」である。

キリストに生きる

・御父の思いを、聖霊はすべて知っていたもう。

・聖霊は御父の思いを、御子にあまさず示したもう。

・御子は、御父の心に、まったく従いたもう。

・御子に結ばれた者は、聖霊が示す御父の心に、御子によって、従う。なんとなれば「われ生くるにあらず。キリスト、わが内に生きたまえばなり」

・信心(御父の心を行うことによって御子のごとくなること)に関わる力は、すべて御子キリストによって、われらに与えられている。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」(ペトロ後書1:3)

宗教改革500周年に向けた個人的アジェンダ

・95か条の提題。1517年10月31日。ウィッテンベルク城教会。
・ライプチヒ論争(ルターvsエック)1519年。
・『キリスト者の自由』1520年。
・ヴォルムス帝国議会「われここに立つ」1521年。
・ミュンスター千年王国派の惨劇。1525年。
・マールブルク会談(ルターvsツヴィングリ)1529年。
・首長令。1534年。
・『キリスト教綱要』1536年。
・トリエント公会議。1545年。
・アウグスブルク宗教和議。1555年。
・39か条。1563年。
・ナントの勅令。1598年。
・ウェストミンスター信仰告白。1646年。
・ウェストファリア条約(新旧地域確定)1648年。

・宗教改革500周年。2017年10月31日(あと8年)

・個人的アジェンダ

1.カトリックとプロテスタントの中間項としてのドイツ14世紀神秘主義あるいはウニオミスティカ。

2.ウニオミスティカとコングレガシオン(団体)「霊性の数だけ団体があるのか」

3.ウニオミスティカとオルド(会則)「体験の逸脱は如何に規制されるのか」

4.ウニオミスティカとインスティトゥティオ(制度)「体験はいかに言語化され定式化されるのか」

5.ウニオミスティカとエピスコポス(監督)「多様な霊性、団体、体験、定式を、だれが監督するのか」

6.ウニオミスティカとシノドゥス(教会会議)「監督たちは、どのように最大公約数を取るのか」

7.ボランタリー・アソシエーション(自発的結社)としての教会。「自発性の数だけ団体があるのか」

8.インスティトゥティオ(制度)としての教会。「制度の中で自発性は如何に担保されるのか」

9.「見えざる教会」の交わりと「見える教会」の交わり。

10.「見えざる教会」の交わりは「見える教会」の交わりと無関係であるか、反映されるべきか。

11.「見える教会」の交わりの本質は、ウニオミスティカか、コングレガシオンか、オルドか、インスティトゥティオか、エピスコポスか、シノドゥスか。

12.「見えざる教会」と「見える教会」の中間項としてのウニオミスティカ。

13.ウニオミスティカの言語化と定式化としての「オルド・サルティス」

14.ウニオミスティカの表象としての「シンボル」

15.「シンボル」のリスト。バプテスマ。ユーカリスト。信仰告白。そして「互いに足を洗い合うこと」

16.「イエスは主、と告白する人々が、互いに足を洗い合うこと」これ以上のシンボルが必要なのか、必要でないのか。

17.予定説と予知説の中間項としての「ウニオミスティカ」とその表象としての「シンボル」

18.プロテスタンティズムにおける政教分離。しかし、ウニオミスティカに生きる者は、政治に参加するのか、しないのか。

19.神から委託された「家」としての世界。世界を管理する「家令」の責任。

20.「家令」の責任を分担する三者。国家と社会と教会。

21.ウニオミスティカに生きる者が果たすべき「家令」の責任(エキュメニズム)

22.国家の分限。社会の分限。教会の分限。しかし、それを統合する主体としての「個人」

23.「個人」の主体性の確立としての「われ、ここに立つ」あるいは「ウニオミスティカ」

24.多くの個人の主体性を、その多様性を保障しつつ主権のうちに統合する装置としての「デモクラシー」

25.デモクラシーという、統合する装置の「動力」としての「愛」あるいは「互いに足を洗い合うこと」

26.「互いに足を洗い合うこと」の試金石としての「小さき者たち」

27.「家令」が説明責任を負う相手としての「小さき者たちの王国の王」あるいは「再び戻られる主イエスキリスト」

28.「この者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という王の言葉。

29.家令としての国家の「奉仕」と「この小さき者」

30.家令としての社会の「奉仕」と「この小さき者」

31.家令としての教会の「奉仕」と「この小さき者」

32.この家の多くの家令たちの分担された責任および分担された奉仕としての「エキュメニズム」

33.ウニオミスティカに生きる者が行う、国家の奉仕としての働き。

34.ウニオミスティカに生きる者が行う、社会の奉仕としての働き。

35.ウニオミスティカに生きる者が行う、教会の奉仕としての働き。

36.「すべてが、主イエスキリストのためにする、働きである」

37.その働きの標語。「オラ・エト・ラボレ」(祈れ、そして、働け)

38.ウニオミスティカの前提としての「オルド・サルティス」

39.オルド・サルティスの前提としての「一般召命」すなわち「福音の説教」

40.福音の説教の前提としての「信教の自由」

41.国家と社会と教会を統合する「個人」の主体性の保障としての「信教の自由」





マルコという宣教的実存

・ヨハネマルコ。エルサレムの裕福な信者の子弟。

・その邸宅は、二階座敷として「主の晩餐」と「ペンテコステ祈祷会」に用いられた可能性が。

・ゲッセマネの園での主の捕縛の際に逃げた若者?14:51-52 この逸話の挿入意図。

・バルナバのいとことして、アンテオケ教会の設立に参加?

・タルソのサウロを探し出して協力を求めたバルナバ。

・サウロ(パウロ)、バルナバ、ヨハネマルコの「宣教班」。

・宣教旅行からのヨハネマルコの脱落。ホームシック?使徒13:13, 15:37-39

・宣教のために先へ進む使徒。使命を捨てて家に逃げ帰るマルコ。「逃走」のモチーフ。(あの逸話の挿入意図?)

・原始教団の宣教。
(ア)わざ(しるし&不思議)
(イ)ことば(驚愕して参集した人々への説教)
(ウ)反応(受容or迫害)
(エ)結果(受容の結果としての教会設立。迫害の結果としての離散)

・大執事ステパノへの迫害の結果としての弟子たちの離散。離散先で設立された教会としての「アンテオケ教会」。使徒11:19-21

・散らされた種が実を結んだ「アンテオケ教会」。使徒11:22-26

・その「アンテオケ教会」が、地中海に蒔く福音の種としての「宣教班」の宣教旅行。使徒13:1-3

・原始教団の宣教のただなかに身を置いて、種まきのわざに従事していたヨハネマルコ。

・宣教旅行から逃走することによって自覚されたマルコの「献身と服従」の問題。

・宣教旅行に再献身することによって確証されたマルコの「宣教する実存」としての主体。コロサイ4:10

・マルコ伝の冒頭の提示。「宣教する実存」としてのバプテスマのヨハネ。「宣教する実存」としてのナザレのイエス。「宣教する実存」たるべく召命を受けた四人の弟子たち。1:1-20

・ナザレのイエスによる「しるし&不思議」。1:21-2:12

・ナザレのイエスに対する人々の反応。「受容or拒絶」。4:13-20

・「受容のしるし」としてのツロ・フェニキヤの異邦人の女。7:24-30

・「拒絶のしるし」としてのファリサイ派の律法学者。3:20-30

・拒絶の結果としてのバプテスマのヨハネの獄死と、ナザレのイエスの十字架の死。6:14-29, 14:1-15:41

・原始教団における「イエスの出来事」の信仰告白の定式化。
(ア)死んでよみがえりたもう主イエス。
(イ)天に挙げられ御座に着きたもう主イエス。
(エ)御座から世界を支配したもう主イエス。

・定式化された信仰告白としての「頌栄」。

・信仰告白と共に定式化されたキリスト者の信仰と生活。

・定式化されたキリスト者の生活。
(ア)福音の説教を聴聞し
(イ)信仰告白をし
(ウ)水の洗礼を受け
(エ)教会で聖日の礼拝を守り
(オ)教会維持献金をし
(カ)聖餐にあずかり
(キ)世と区別された生活をする

・「定式化」を拒否するヨハネマルコ。
(ア)復活後の「高挙のイエス」の定式化(天に上り、神の右に着き、聖霊を注ぎ、万物を統べ治めたまい、やがて、再び来たりたもう)
(イ)その「定式化」をあえて避けるヨハネマルコ。
(ウ)ナザレのイエスは定式化され得ない。「あの方は、ここにはおられない」「先に行って待っておられる」「あなたがたはそこで主にお会いする」

・ひとたびは逃げ出した弟子たちを、先に行って待っておられる「宣教する実存」としての主イエス。

・逃げ出し(退落し)主体性を喪失した弟子たち・および・その姿の中に含め描かれているところの「宣教班から脱落したヨハネマルコ」彼自身。

・「宣教する実存」としてのイエスは、先に行って待っておられる。

・かつてひとたび「宣教する実存」となるべく召され、今は退落して主体性を没した弟子たちは、その召された原点の場所(ガリラヤ)において、イエスに再びお会い出来る。

・「宣教する実存」が、退落し、主体性を失い、しかし、その絶望の闇の中で、先に行って待っておられる「主の約束」を聞き、その約束を信じ、その約束におのれの全存在を再びかけて、前に向かって進んで行くときに(すなわち「宣教する実存」としての献身と服従をなすときに)先に行って待っておられる主が、お会いくださる。

・主がお会いくださるのは、原点、すなわち「召命の原点としてのガリラヤ」において、である。1:16-20

・主イエスキリストとお会いする、ということは、時間の彼方としての「再臨」の点にあるのではあるが(時間的再臨)、しかしまた、「宣教する実存」としてのヨハネマルコにとっては、主イエスキリストとお会いする、ということは、「宣教する実存」としてのおのれが、そこから退落し、しかし、「先に行って待っておられる」という主の約束に対する信頼のうちに、献身と服従の決断をなし、そのことによって・そのことにおいて、「宣教する実存」の主体性を取り戻し、そして、前に向かって進んで行った、まさにその進んで行った先において、生起する出来事にほかならない(宣教的再臨)。

・マルコの筆によるのでない、マルコの精神の要約。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に(すなわち「宣教する実存」としての彼らと共に)働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」

・マルコの筆によるのでない、マルコの精神の要約。「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」

・しかし、この要約すらも、すでに、ある種の「定式化」である。

・この定式のうちに、主はおられない。

・しかし、この定式が指し示すところの実存、すなわち、「先に行って待っておられる」という主の約束に対する信頼のうちに、献身と服従の決断をなすところの「宣教する実存」において(をとおして)、主イエスキリストは生きて働いていたもう。

・主は「先に行って待っておられる」と、いまや、告げられている。

・それを聞くおのれ(ヨハネマルコ)は、いま、「宣教する実存」から退落し、没主体性のうちに、沈んでいる。

・主が「先に行って待っておられる」という、その待っておられる地点は、弟子の召命の原点としての「ガリラヤ」である。

・「宣教する実存」たれ、という呼びかけをもって、かつて召し出された、その原点(ガリラヤ)に向かって、いまいちど進んで行くことの「決断」をすることが、「復活の朝」における、新たな召命である。

・その「決断」を求められるとき、「宣教する実存」から退落した没主体性は、みな「おそれおののく」。

・「震え上がり」「正気を失っていた」「恐ろしかったからである」

・それは、かつて「宣教する実存」として生きようとして、失敗した者はみな、「宣教する実存」を、何が、また、どのような出来事が待ち受けているかを、見て、聞いて、知っているからである。

・「口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」「二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」「パウロに石を投げつけ、死んでしまった」「何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込んだ」「足に木の足枷をはめておいた」「暴動を起こし」「家を襲い」「あざ笑い」「法廷の前で殴りつけ」「パウロを殺そうとしていた」 これら「宣教する実存」を待ち受けているもの。Cf.使徒

・この「おそれおののく」ことの中に、決断をなすべきことが、求められる。

・すなわち、主の約束を信じ、再び「宣教する実存」たるべく、おのれの全存在を主イエスにかけるのか。

・あるいは、主の約束を疑い、依然として「宣教する実存」から退落した没主体性のうちに、すなわち「おそれ」のうちに、おのれを留まらせ続けるのか。

・この「決断」を迫られる者は、すべてみな、「おそれおののく」。

・そして、ヨハネマルコは、おそれおののいた。

・ヨハネマルコは、同じ「決断」を、福音書のすべての読者に迫る。

・その「決断」は、開かれており、ひとりひとりに問われている。

・それゆえに、それは「定式化」されることを拒む。

・この「復活の朝」の新たな召命に対して「しかり」の決断をした者らは、あのマルコの精神の要約、すなわち「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」という要約を、おのれの身に生起した出来事として経験し、それゆえに「アーメン」と言う。

・この「復活の朝」の新たな召命に対して「いな」の決断をした者らは、あのマルコの精神の要約、すなわち「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」という要約は、おのれの身には決して生起しなかった、生起し得なかった「死んだ定式」として、残される。それゆえ、その「アーメン」は、唱えられえず、唱えられたにしても、単なる「定式への形式的承認」という没主体性に沈む。

・汝のアーメンは、いかなるアーメンであるか?

主の晩餐の考察

・主の晩餐の元型としての「過越の食事」

・三つの物質:非発酵パン、苦菜、ブドウ酒、小羊のロースト。

・家長が主宰し、家族が食卓を囲む。

・年に一度、過越祭に行う。

・ブドウ酒は、乾燥ブドウを水に浸けてふやかし、すり潰したジュースであることに注意せよ(!)

・苦菜は、レタスまたはパセリ。

・第一回の杯を干し、苦菜を食す。

・第二回の杯を干し、小羊のローストを食す。

・第三回の杯を干し、パンを食す。

・第四回の杯を干し、感謝をささげる。

・第四回の杯は、まず家長が口をつけ、続いて、家族が回し飲みすることに注意せよ(!)

・主イエスキリストは、食卓の主宰者として、第三回の杯の後の「パン」と第四回の「感謝の杯」に、新経綸における意義を付与した。

・すなわち、全人類の罪を贖う主イエスキリストの十字架の死を象徴する「パン」と「杯」という意義である。

・「パンと杯」は、かつて、出エジプトの出来事を想起するために、行われた。

・「パンと杯」は、いまや、主イエスキリストの出来事を想起するために、行われる。

・過越祭から主の晩餐に移行する過程で抜け落ちた「苦菜」と「小羊のロースト」の位置?

・「苦菜」は、その表象が、本体である主イエスキリストの十字架の苦悶のうちに、解消された。

・「小羊のロースト」は、その表象が、本体である主イエスキリストの十字架上の御体(コルプス)のうちに、解消された。

・「本体」が現れた時に、その本体のうちに、取り込まれ、解消される「表象」あるいは「予表」。

・表象が本体に取り込まれ解消されるのであれば、その他の表象についても、同様のことが言えるのか、あるいは、言えないのであるか?

・その他の表象として考えられるべきものとしての「幕屋」「祭司職」「犠牲」「安息日」「割礼」「祭」「契約の箱」「恵の座」「青銅の祭壇」「香炉」「パンの机」「七枝の燭台」「水盤」「庭」「神殿」そうして「パン」と「感謝の杯」さらにはまた「水の洗礼」。

・ある表象は本体に取り込まれて解消され、ある表象は本体が眼前に出現してなお解消されずに残るのか?

・前者と後者の区別は、いかにして、なされるか?

・主が「記念せよ」と命じたことによるのか? あるいは、よらないのか?

・監督が「記念せよ」と命じたことによるのか? あるいは、よらないのか?

・教会会議が「記念せよ」と命じたことによるのか? あるいは、よらないのか?

・主に直結した信徒の自発的な行為によるのか? あるいは、よらないのか?

・「主イエスキリストご自身が、見えざる神の恩恵の唯一の目に見ゆる現れである」とする立場からした場合。この立場は、聖ヨハネの立場であるのだが(神を見た者は誰もいない。ただ、父のふところにいる独り子なる神だけが、神を現した)。

・別の言葉で言い換えれば、「唯一の聖礼典としての主イエスキリスト」。

・あるいは「根源的サクラメントとしての主イエスキリスト」(カール・ラーナー)。

・そうした場合、主イエスキリストのみが唯一の「表象」である、と言い得るか、言い得ないのか?

・主イエスキリストが唯一の真の「表象」であって(それはつまり、受肉者だということなのだが)他のあらゆる「予備的な表象」は、このお方のうちに取り込まれ、解消されるのであるとしたら、いったい、主イエスキリストご自身の他に、いかなる表象が残されるのか、あるいは、主イエスキリストご自身の他に、何も残らないのか?

・主に直結した信徒の自覚に基づいて、ただ主イエスキリストのみを唯一の真の「表象」として生きることを選んだ場合、この決断は、教会秩序の問題であるか、あるいは、霊的生命の問題であるか?

・主に直結した信徒の自覚に基づいて、ただ主イエスキリストのみを唯一の真の「表象」として生きることを選んだ場合、その生き方は、主との直結を強めるのか、弱めるのか、あるいは、いかなる影響も及ぼさないのか?

・主に直結した信徒の自覚に基づいて、ただ主イエスキリストのみを唯一の真の「表象」として生きることを選んだ場合、そして、その生き方が、結果として「世」の生き方とは明らかに区別される場合、その生き方は、別の「表象」と化しているのか、あるいは、別の何物かではなく、ただ唯一の主イエスキリストが、その復活の命をもって、信徒のうちに立ち現れた、ということであるのか? 

・唯一の真の「表象」である主イエスキリストが、その復活の命をもって、信徒のうちに立ち現れるという場合、信徒は単数ではないゆえに、それら一群の人々(すなわち教会)は、主イエスキリストの「世」における(世に対する)「表象」となっているのか、あるいは、なっていないのか?

・そのような意味において教会が「表象」であるならば、教会は、それそのものが聖礼典と呼ばれ得るのか、得ないのか?

・根源的サクラメントとしての主イエスキリスト、そして、根源的サクラメントとしての教会(カール・ラーナー)。

・主の晩餐が祝われるとき、聖変化するのはパンである前に、むしろ、教会である(ハンス・キュンク)。

・教会の聖変化は、世に対しては、ただ、パンを裂くことによってのみ、証しせられるのであるか?

・教会の聖変化は、世に対しては、ただ、互いに足を洗い合うことによってのみ、証しせられるのであるか?

・「あなたがたは互いに愛し合うことのほかに、いかなる借りもあってはならない」

・教会の聖変化は、世に対しては、ただ、愛し合うことによってのみ、証しせられるのであるか?

・教会は、互いに愛し合うという義務のほかに、いかなる義務を負うか、あるいは、負わないのであるか?

宣教150周年に関する覚書

1825(文政8)外国船内払令

1828(文政11)シーボルト事件

オランダ商館付の医師シーボルトが日本地図を持って帰国しようとしたことが発覚。地図を渡した関係者が処罰される。

1837(天保8)モリソン号事件

日本の漂流民を乗せた米船籍の非武装商船を、日本側が英国軍艦と誤認して、浦賀沖で砲撃した。

1842(天保13)薪水給与令

アヘン戦争で清が惨敗し、南京条約が結ばれたことに驚愕した日本側が、遭難した外国船に限って救助することを認めた。

1854(嘉永7)日米和親条約

下田と函館を開港し、米国船に薪水を補給し、漂流民を引き渡し、下田に米人居留地を設置し、最恵国待遇を米国に行うとする条約。これにより、鎖国体制が解かれる。

1858(安政5)日米修好通商条約

横浜、長崎、函館、新潟、神戸を開港し、下田を閉鎖する。米国に領事裁判権を与える。江戸と大阪を開く。自由貿易を開始する。両国の協議で関税率を決定する。内外貨幣を通用する。最恵国待遇を米国に行うとする条約。 同様の条約を英仏蘭露とも結ぶ(安政五カ国条約)。その結果、横浜、神戸、新潟、長崎、神戸、築地、川口(大阪)に治外法権の外交人居留地が設置される。外国商社と共に宣教師が入って教会と学校を設立。多くの著名なミッションスクールの創設地となる。

1859(安政6)宣教師来日の年

ジョン・リギンズ(1829-1912)米聖公会
チャニング・ウイリアムズ(1829-1910)米聖公会、日本聖公会初代主教
ジェームズ・カーティス・ヘップバーン(ヘボン)(1815-1911)米長老教会、医療宣教師、ヘボン塾(バラ塾)、明治学院初代総理
サミュエル・ロビンズ・ブラウン(1810-1880)米オランダ改革派教会、新約聖書翻訳委員、ブラウン塾
デュアン・シモンズ(1834-1889)米オランダ改革派教会、医療宣教師、横浜中病院(現横浜市大病院)医師
ギード・フリードリーン・ヴァーベック(フルベッキ)(1830-1898)米オランダ改革派教会、旧約聖書翻訳委員、明治学院理事

※米オランダ改革派教会=現RCA(Reformed Church in America)

4000人の給食、5000人の給食は、、、、

「愛餐」だったのではなかろうか?

なんとなれば、、、、

・主イエスキリストを主人とする食事であり

・主イエスキリストがまずパンを取って感謝の祈りをささげ、次に、これを裂いて、分配し、さらに、魚についても同じようにされたからであり

・しかも、父なる神は、この食事の交わりを心から祝福しておられることを、「しるし」としての奇跡によって、目に見えるかたちでお示しになり

・この食事の交わりから漏れた者は、その場に居合わせた者たちの中で、ただの一人もなく

・すべての者が、信者も不信者も、バプテスマのヨハネの洗礼を受けた者も受けていない者も、イエスの弟子たちによる洗礼を受けた者も受けていない者も、ユダヤ人も異邦人も、律法学者も民衆も、つまり、ほんとうにすべてのものが、みな食べて、満腹したからである。

・さて、この食事は、人類に対する神の愛の御心が目にみえるかたちで表わされたものとしての「サクラメント」に他ならないが、これを「愛餐」と呼ぶのは当然として、「聖餐」と呼び得ないのは、なぜか?

・この食事の交わりの中心に、いと聖なるお方、すなわち、われらの主イエスキリストのいましたもうのであれば、これを「聖餐」と呼び得ぬはずがない。

・それにしても、いと聖なるお方が、感謝の祈りをささげてパンを裂き、配られたのであるから、これを「ユーカリスト」(感謝の食事)と呼び得るのは、あたりまえである。

六日間創造説

・文字通り一日24時間の「六日間創造説」を採用するのなら

・再臨のキリストの千年間の統治も、文字通り一日24時間一年365日の「千年王国」と解するべきなのであって

・六日間は文字通りだと言いながら、千年間は象徴的だと言うのは、まったく理解できない。

新エルサレムに安着した暁には

・王の王、主の主なる御方に拝謁したあと、真珠門脇の「パーリー・ゲートカフェ」に直行しよう。

・そこで、先客たちに、こう尋ねよう。「西田幾多郎先生は、ここへ来ておられますか、どうですか?」

・「いえ、見たことがありませんね」という返事ばかりだったとしたら、小生は、しばし、沈思黙考しよう。

・「ああ、来てますよ。ほら、あそこに腰掛けておいでです」という返事があったとしたら、小生は、この機会を逃さす、先生にお目通りを願おう。

・ひととおり挨拶が済んだところで、小生は、先生にこういう質問をしてみたいと思う。

・「先生。先生がお書きになった『世界新秩序の原理』という御論ですが、あれを読んで、大概飲み込めたのですけれども、ひとつ、ひっかかるところがあるのです」

・「先生は、あの中で、世界が具体的に一となると云うことは各国家民族が何処までもそれぞれの歴史的生命に生きることでなければならない。恰も有機体に於ての様に、全体が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全体が一となることである。私の世界と云うのは、個性的統一を有ったものを云うのである、とおっしゃっている。おっしゃることは、よくわかるのですが、しかし、具体的に考えれば、先生があれをお書きになった時点において、朝鮮の主権は日本に併呑され、朝鮮の個人は姓氏改名され、朝鮮の国語は日本語に置換されていたわけです。これは、どう考えてみても、朝鮮という民族の個性を没滅して、それが歴史的生命に生きることを妨げるものではありませんか? つまり、先生の御論に対する具体的な矛盾であるわけだ。先生は、その矛盾を矛盾として受け止めておられたのですか? あるいは、先生の御論においては、その矛盾は、どうやって超克・解消されることになるわけですか? そこのところを、ぜひお聞きしたいと、ずっと思っておりました。ここは、永遠に時間がありますから、どうぞよろしくお願い申し上げます」

ヨハネ教団における聖餐

・<<伝統的な意味におけるサクラメント主義を認めることは、何れにせよヨハネの文脈が許さない>>!(シュルツ)

・ヨハネは何を批判したのか?

・すでに初代教会において形骸化していた聖餐への批判。

・具体的には?

・形骸化した聖餐に対するパウロの批判(コリント書)を参照せよ。

・「キリストのからだ」である教会、すなわち、新しい契約の共同体である教会の交わりを、可視的に表現する手立てとしての聖餐。

・「キリストのからだ」をわきまえないで聖餐を食する、とは? 新しい契約の共同体である教会の交わりを、損なう者が、聖餐を食することによって、聖餐が可視的に表現しようとするところの実質を、無意味なものとしてしまうこと。

・「損なう」とは? 愛のない態度によって、キリストの肢体である兄弟姉妹を、苦しめること。

・コリントの共同体の「愛のない態度」とは、何か?

・人々は、各家庭から、聖餐の物質を、教会の礼拝に持ち寄った。

・豊かな人々は、祝福の祈りをして、すぐに聖餐の食事を始めた。そして、すっかり食べて、満腹し、感謝した。

・貧しい人々は、自分の家から持って来れるものがないために、いつまでも聖餐の食事を始めることが出来ず、ただ、隅の方に居て、他の人々が食べたり飲んだりしているのを、空腹を抱えながら、じっと見つめていることしかできなかった。

・豊かな人々は、何か配慮をしたのか?

・貧しい人々のために、まったく何も配慮をしなかった。これが、コリントの共同体の「愛のない態度」である。

・こうして、聖餐が可視的に表現しようとするところの実質、すなわち、キリストのからだなる教会の交わりにおいて、貧しい人々が切って、捨てられた。

・聖餐の席から切り捨てられた人々は、キリストのからだの交わりから切り捨てられた肢体を、可視的に表現している。

・聖餐に与ることが出来ず、空腹のままの人々が排除されるとき、そのような聖餐が表わす実質においては、キリストのからだが傷つけられ、損なわれているのである。

・それゆえ、「キリストのからだを損なうことになる」とパウロは警告した。

・キリストのからだなる教会の交わりの本質は、それでは、何であるか?

・「互いに足を洗い合うこと」すなわち「互いにへりくだって、仕え合うこと」にほかならない。

・キリストのからだなる教会の交わりの本質を表現するため、キリストは、手ぬぐいを腰にまき、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗われた。

・キリスト者が、お互いにへりくだり、お互いの足を洗い合うことが、キリストのからだの交わりの本質である。

・身を低くして、かがむこと。ひざまづくこと。最も汚い部分に触れること。触れて汚れを身に受けること。水で洗うこと。仕える者の立場として、洗うこと。ていねいに洗うこと。やさしく洗うこと。

・仕える者が洗うとき、足をたたいたり、つねったり、ふみつけたり、「汚い足だ」などと言い放ったりは、しない。

・キリスト者が、お互いにへりくだり、お互いの足を洗い合うという、キリストのからだの交わりの本質が実行されるのは、聖餐の物質の媒介によるのではなく、キリスト者が、身を低くし、かがみ、ひざまずき、最も汚い部分に触れ、触れて汚れを身に受け、水(聖霊を象徴するもの)で洗い、しかも、仕える者の立場として、ていねいに、やさしく洗うこと。

・このような愛の実行があるところにおいては、もはや、形骸化した聖餐の実行は、固執する必要がない。

・それゆえにこそ、ヨハネは、聖餐制定句も、その場面をも、福音書から省略したのか?

オールド・パースペクティブにおける「義」の理解

・佐竹明『ガラテヤ人への手紙』新教出版社、1974年、pp.210-215.

・「義は、もともと旧約・ユダヤ教の伝統では、二人格間に成り立つ正当な関係を指し示す言葉であり、パウロも基本的にはこの理解をうけついでいる」

・「したがって、パウロが義と認められると言う場合には、それは、神との正しい関係に入ることを許されることを指しており、実質的には神の支配下におかれることに他ならない」

・「ところで、神の支配下にあるものが、罪ないし律法の支配下にとどまり続けることは、不可能である。しかし、このことは自動的にそうなるというのではない。生まれながらの人間として持っていた信徒の本性そのものが、義とされるに際し別のものにかえられたのではないからである」

・「むしろ、信徒は神の支配下に移されることによって、新たに、今までのように罪に仕えてではなく、義に仕えて生きることを求められていることとなる、という方がいい(たとえばロマ6:11ffを見よ)」

・「しかしそれと同時に、人間がこの要求を独力で実現にもたらさなければならないとされているのではない点にも注意を払う必要がある。むしろ、義に仕えること自体が、神によって信徒に対して新しく可能とされるのである。これが神の支配下におかれるということの意味であり、あるいは、義とされるということの意味である」

・「義認についてもう一つ問題になるのは、パウロが「義とされる」ことを現在のことと考えているのか、将来のことととらえているのかという点である。結論から言えば、これはそのいずれとも一方的に決定することはできない。すなわちパウロは、一方では「かつて」とちがう「今」の時の決定的新しさを強調し、その特長を「律法なしに神の義があらわされた」ことの中に見出すが(ロマ3:21)、他方では、「義とする」ないしは「義とされる」を未来形で使う例も少なくない(ロマ3:30他。ロマ5:19; Iコリ4:4; ガラ5:5fを参照)」

・「そこには、現実のこの世にある限り、信徒といえども完全なものとされているのではないという理解が反映していよう。このように、義認の時点をパウロが一意的に明確にしていないという事情、換言すれば、彼がこの問題を論じることに興味を示していないという点は、われわれの箇所についてもあてはまる」

 ↓

・脚注「ラグランジュは、分子句でδικαιουται(義とされる)という現在形が使われていることを論拠に、ここでは最後の審判での判決が考えられているのではなく、実際に現在与えられている義が考えられているとするが、しかし現在形は一般的法則のようなものを書くときにも用いられるから(Bultmann, Exegetica 473頁がこの箇所の現在形を「時間的意味を持っておらず、論理的、ないしは格言的な表現」としているのを参照)、現在形の使用は決定的論拠にはならない。なお、ラグランジュは、理由句での未来形は論理上の未来形となっている」

・「ただ、次の17節の発言から見ると、どちらかといえば将来的と捉える方に比重がかかっているということはできよう」

 ↓

・脚注「Bultmann, Exegetica 473-474頁は、「義とされる」が未来形で使われている大部分の例は時間的な将来のことを指しているのではなく、この未来形は論理的ないしは格言的な性格のものとするが、しかしこの17節と5:5およびロマ5:19では将来的義認が語られているとしている」

・「なお、ユダヤ教でも、義とされることの時点の把握の仕方については一様ではない。義とされるのは将来的にとらえられることも、現在的にとらえられることもある。従って、われわれはこの点に何らかのパウロ的特長を見出すことはできないであろう」

・「それでは、そのような「義とされる」ことは何を根拠になされるのか。ユダヤ教では、神の意志の具現である律法の遵守を度外視しては、このような「義とされる」ことは考えられ得なかった。「律法のわざ」は神の要求に応える聖なるわざであって、それは人間が恣意的に行う、人間自身のわざとは正反対の性格を持つと見なされた」

・「これに対し、パウロは「律法のわざ」を却ける(ロマ3:20他を参照)。それはなぜか、彼は、「律法のわざ」は必然的に、神の前で誇り(ロマ4:2)、神に向かって自らの権利要求を提出するための手段と化すと考える。「律法は霊的」であっても、「わたしは肉的であり、罪の下に売られている」からである(ロマ7:14)」

・「われわれの個所との類似の発言では、「律法のわざ」に相当する表現として、「律法」(ロマ3:21; ピリ3:9)、「わざ」(ロマ4:2; 9:32)が使われることがある。このことは、「律法」も「わざ」も、この場合には似通った機能を果たすものとしてとらえられていることを示していよう」

・「もっとも、律法の方は、「律法にあって」という使い方もなされることから明らかなように(ガラ3:11; 5:4)、一つの支配勢力としての性格も持っており、これに対し「わざ」という表現では、具体的な行動という側面に重点がかかる(それが常に複数形で使われる点にも注意)。「律法のわざ」はそれゆえ、律法の要求を行うわざであると同時に、律法によって可能とされ、促進されるわざを指すと見るのがよかろう」

・「義とされることは律法のわざにはよらないと、先ずユダヤ主義者たちがユダヤ教的伝統に従って抱いている理解を却けたパウロは、それに続けて、義とされることは「キリスト・イエスの信仰」によると、積極的な形での主張に転じる」

・「このように信仰と律法のわざと対立的にとらえることによって、パウロはユダヤ教の律法理解ばかりでなく、その信仰理解をも却けたこととなる。というのは、ユダヤ教では信仰が律法のわざに対立すると考えられたことは決してなく、それはむしろわざを補うもの、さらにはそれ自体わざの一つと見なされていたからである。また、神を信じるという場合にも、神の意志の具現としての律法が視野から消えることは全く起こりえず、むしろ時には律法に対する信仰も語られるほどであった」

・「「キリスト・イエスの信仰」が「律法のわざ」と対置されることから明らかなように、「信仰」は「わざ」の一種ではなく、それと対立的な性格を持つ。すなわち、わざによる生がもっぱら人間の働きに依存する生であるのと正反対に、信仰による生は、キリストにすべてをゆだね、自分の生の唯一の根拠を、キリストにおいて現実となった神の恵みに求めることにおいて成立する」

ブログ・アクション・デイ

キリスト者の完全についての覚書

・ジョン・ウェスレー、1767年1月27日

・以下、『ウェスレー著作集』第7巻、pp.455-456より転載。

これは、キリスト者の完全、及び、それをうけとる仕方とその時について、今朝私の心に浮かんだ考えであるが、これを書きとめておくことは役に立つと信じる。

1.私が言う完全とは、神及び隣人に対する謙遜にして柔和な、忍耐強い愛であって、われわれの気質、言葉、行動を支配するものである。

部分的にせよ、全体的にせよ、その完全から堕ちることがあり得ないというものではない。従って、部分的にではあるが、堕ちることの不可能性を表現したり暗示したりしている讃美歌集の数ヶ所の表現を私は取り消す。

そして、私はそれに反対するのではないが、「罪のない」という表現を主張しないことにする。

2.それをうけとる仕方について。私はこの完全が、いつも信仰という行為だけによって、瞬間的にたましいの中に行われるものであることを信じる。

しかし、私は、この瞬間に先行し、また、後続する漸進的な働きを信じる。

3.それをうけとる時について。この瞬間は、一般に、死の瞬間であり、たましいが肉体を去る直前の瞬間であると信じる。しかし、それがその十年、二十年、あるいは、四十年前であるかも知れないと私は信ずる。

私は、それが普通、義認の後、多くの年月を経てからであると信じる。しかし、義認後、五年以内、あるいは、五ヶ月以内であることもある。これに反対する決定的な論証を、私は知らない。

もしそれが、必ず義認後の長年月後であるとすると、それが何年であるかを私は知りたいと思う。

Pretium quotus arroget aunus? (めぐり来る年月の如何にせば真価を問うや?)

また、完全にされた時と死との間に、何日、何ヶ月、何年が存在すると、人は言いうるのであろうか。それは義認からどれだけ離れていなければならないのだろうか。また、死とどれだけの近さであろうか。

ロンドン、1767年1月27日
ジョン・ウェスレー

フルオープンコミュニオンについて

・ウェスレーは1740年5月27日(金) 「私を記念するため、このように行ないなさい」と題する説教において、「完き意味の信徒のみに聖餐を授けるべし」とする考えを批判し、聖餐に与ることは、回心に至るための「恵の手段」(ミーンズ・オブ・グレース)であると主張している。

・信者のための聖餐ではなく、未信者が回心するための聖餐?

・聖餐式を行わない兄弟姉妹の見解。

・ロバート・バークレー『15か条提題』

・その第13提題「聖餐すなわちキリストの身体と血とにあずかることについて」

・「キリストの身体と血との聖餐は内面的、また霊的な事柄であり、彼の肉と血とにあずかることである。聖餐によってキリストが住まわれる人々の心の中で、内なる人が育成される。キリストが弟子と共なる時パンをさかれたことは右の事実の象徴であり、実体を受けた人々も教会において、弱き者のためにこのパンをさくことをしばらくの間行った。それは、しめ殺したものと血とを慎むこと、互いの足を洗うこと、病める者に油を塗ることと同様であり、これらはすべて、パンをさくことに劣らない権威と厳粛さとを以って命令された。しかしそれらは更に良きものの影に過ぎないのだから、実体を受けた人々には不必要になる。

・ヨハネは、聖餐を記事から、あえて除外したのか?

・ジークフリート・シュルツの見解『NTDヨハネ註解』

・「極めて注目すべきことに、このイエスの最後の食事の場面には、聖晩餐の制定に関する記事がなく、その代わりに物語の中心になっているのは洗足、つまり献身的な兄弟愛の自己否定的な模範にある! このような重大な事柄(=聖晩餐)について、偶然書かれていないということは、もちろん問題になりえない。むしろヨハネは、聖晩餐伝承を、意識的に省略したのである。そのくせ彼の福音書には、聖晩餐への暗示がないわけではない。ということは、ヨハネは聖晩餐のサクラメントを知っていただけでなく、自明のこととして前提していた、ということである。けれども、聖晩餐だけでなくサクラメント一般に対する強い関心が、ヨハネには決して見出せないのである。福音書記者がまさにこの物語によって指し示しているのは、むしろ―そしてこのような告知の傾向はやがて起こり来る初期カトリックの大教会と一致しないのであるが―相互間の兄弟的、献身的な愛の、無条件の手本なのである。世がこのような愛に値するというのではなく、13章24節の「新しい戒め」も示すように、兄弟間の無条件の愛だけが要求されるのである。

・サクラメント(シュルツ)

・「人は、父から遣わされた子―言い換えれば共同体(エクレシア)の告知―に聞き従いつつ出会うとき、滅びの力たる世への隷属からはっきりと解き放たれるが、それに反してもし聞き従わず、そのことによってイエスに敵対すべく決断したときには、決定的な審判がもたらされる。そのようなキリスト論的かつ終末論的な立場に立てば、第四福音書記者が伝統的なサクラメント(救いに不可欠とされる洗礼と聖餐)に殆ど何の関心も示していないことは、少しも不思議ではない」

・「ロゴスが地上に現在するということと、宣教されたキリストの言葉を聞いて信じることにおいて、人は直接的に啓示者と―従って神自身と出会うということがすべての問題の中心なのであるから、使徒職と教会の自覚、使徒の伝統と教会の継承―教会法によって規定された役職の継承―が見当たらないからといって、少しも驚く必要はないのである」

・「本福音書においてサクラメント的な事柄が比較的に、あるいは全然とさえ言ってよい程、重要でないことの理由は、以上のことから少なからず理解できるのである。ヨハネが第三代キリスト教徒の一人であるとすると、サクラメントに対するこのような消極さは法外なことである」

・「ヨハネ福音書の解釈は、サクラメントの意味の理解において二つの相対立した道を歩んで来た。一方の註解者たちの考えによれば、本福音書は―隠されているけれども―至るところで洗礼と聖餐を暗示している、多くの物語は象徴的にのみ理解してサクラメントを指すと解釈すべきであるという」

・「他の一群の註解者たちは反対の結論に達する―サクラメントへの明瞭な言及はすべて、サクラメントの欠如を甘りにも不届きなことと思った後代の教会の編集者たちが福音書の中に書き加えたものである、本来のヨハネ福音書はサクラメントのことなど念頭になかったのである、と」

・「部分的にしろ感情的に争われて来たこの論戦からとにかく得られた教訓は、この二つの解決の試みと極端な立場は何れも当面の問題に正しく対応するものではない、ということである。一貫してサクラメントの象徴だという主張も本当らしく見えないし―もし第四福音書記者がそれ程サクラメントのことを考えていたのなら、なぜ共観資料にある「公認の」(サクラメント)制定記事に拠らないのであろうか―」

・「一方、洗礼と聖餐への言及をすべて福音書記者のものでないとするのも―後代の教会の編集があったということは21章のゆえに否定することができないのであろうけれども―説得力に欠ける」

・「第四福音書記者はサクラメントに反対しなかった。むしろ洗礼と聖餐とを知っていて、自明のこととして前提しているのである。1章19節以下、3章5節以下、15章1節以下、17章19節のような箇所が十分そのことを示している。ヨハネはイエスの洗礼についてさえも知っていたことが、3章22節と4章1節から分かる。本福音書記者は共観福音書以上に、イエスをして自ら洗礼を授けさせてさえいるのである!」

・「ヨハネは一度もサクラメントに直接反論してはいないのだが、しかし同時に、決してサクラメントを中心に立ててはいない、ということも見て取らねばならい! 確かに瞬時も見逃し得ないことなのだが、ヨハネは地上にありかつ復活したもうた者(イエス)の洗礼の命令などどこにも報じていないし、また聖餐制定の記事を排除してその代わり、洗足の記事と訣別説話と、そしてとりわけ大祭司の祈りを入れたのである! そして上述のサクラメントに言及する箇所においてさえ、サクラメント的な事柄は決してそれ自身として強調されるのではなく、新しい内容を盛られた上で首尾一貫して霊の自由な息吹を、共同体の内に働く「真理の霊」を、そして啓示者の「わたしがそれである」ところのものを、指し示すのであるが、その際ヨハネは故意に二者択一的表現を取っているのではない。人となって告知された、「命のパン」にして「世の光」たることばとの出会いにおいてのみ、人は信仰に到達する。いずれにせよ、ヨハネによれば救いはサクラメント的な行為によって動機づけられたり実現されたりするのではなく、むしろ天から遣わされた者の言葉がそのままサクラメントとされるのである」

・「当時おそらく既に広範囲に広まっていたと思われる祭儀上の慣例である礼拝式やサクラメントに対し本福音書記者が示すこの無関心は、極めて異例なことである。このことは、それだけを切り離さずに本福音書記者の神学全体を背景として見る時にのみ、事柄に即して理解することができるであろう。ヨハネの神学の中心はをなすのは、先在の救済者の下降と上昇である。人間イエスにおいて信仰者と出会うのは神に遣わされた者である。肉となったことばにおいて、人間のために救いが存在し歴史がその終わりに到達しているのである。この理由から、信仰者は救いの施設としての教会や教会の役職を、また救済史を保証するものとしての伝承や救済手段としてのサクラメントを、必要としないのである。このようなものが第四福音書記者にとってすべて無意味であるのは、彼にとっては人となったことばにして神の子たる方と人間との出会いのみがすべてであるからである。このことばが真にすべてを支配する所では、まさにサクラメントもこれ(=ことば)に従属させられ、そしてこれによってのみ解釈されなければならないのである。ヨハネがサクラメントとその実施を単純に前提することができるのは、サクラメントにおいてことばと出会うことも完全に可能だと彼も考えているからである。しかしながら、たとえしばしば望まれてはいても伝統的な意味におけるサクラメント主義を認めることは、何れにせよヨハネの文脈が許さない」

・<<伝統的な意味におけるサクラメント主義を認めることは、何れにせよヨハネの文脈が許さない>>!

・イエスキリスト「が」根源的サクラメントである(カール・ラーナー)

・人がイエスキリスト、受肉した神の御言葉であるイエスキリストの「現臨」において、真実に神と出会うとき、「信仰者は救いの施設としての教会や教会の役職を、また救済史を保証するものとしての伝承や救済手段としてのサクラメントを<<必要としないのである>>」

・イエスキリストの「現臨」において真実に神と出会った者たちが自発的に形成する共同体としての教会。Cf.14世紀の「ゴッテス・フロインデ」

・イエスキリストの「現臨」を、福音書記者は、どこに目撃していたのか?

・カナの結婚式において。

・二階座敷での洗足において。

・復活後の湖畔での朝食において。

・ヨハネ21:12に曰く、「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」

・<湖畔での朝食>にイエスの「現臨」が認められるのであれば、聖餐の物質は、パンと魚でもよいか?

・聖餐の物質を、パンとぶどう酒に「制定」したといわれている、あの共観福音書の記事が、そして、その記事のみが、聖餐の実践の正当な根拠となるのであって、それ以外の方式は一切認めないということであるならば、<湖畔での朝食>におけるイエスの「現臨」は、二階座敷の過越におけるそれに比べ、著しく劣るとみなされなければならないということか。

・あるいは、<湖畔での朝食>におけるイエスの「現臨」は、二階座敷の過越におけるそれと比べて、なんら遜色のないものであるのだから、いや、むしろ、十字架と復活を経た「現臨」である、ということを考慮に入れるのであれば、むしろ、<湖畔での朝食>における「現臨」は、二階座敷の過越におけるそれに優越する、とみなさなれることになるのであるから、ここにおいて、もはや、主イエスキリスト御自身が、聖餐の物質に関する規定について、不自由な教会的こだわりを持っておられない、と言わなければならないのか。

・<湖畔での朝食>における自由な息吹が、イエスの「現臨」のしるしとしての真の聖餐であるのなら、聖餐は、いつも、つねに、たえず、パンと葡萄酒を用いた規定の儀式である必要がなく、むしろ、あのような食事、そして、このような食事、さらに、すべての食事において「現臨」したもうイエスとの交わりを、われわれに開くものであるのか。

一致と再編について

使徒言行録第15章に倣い
「われわれはクローズドコミュニオンを重んじ、保守的な人々に宣教する」
「あなたがたはフルオープンコミュニオンを重んじ、リベラルな人々に宣教する」
しかし、キリストにある一致のしるしとして、互いに握手を交わし、二つの管区を設置すればよいのではないでしょうか?

ひとつは、エルサレム管区に倣う、福音主義教会連合。
ひとつは、アンテオケ管区に倣う、エキュメニカル教会連合。

その上で、エルサレム管区は、クローズドコミュニオンをアンテオケ管区内には強要しない。
アンテオケ管区は、フルオープンコミュニオンをエルサレム管区には強要しない。

つまり、宣教戦略上の「住み分け」をするわけです。

フルオープンコミュニオンについて

・クローズドコミュニオンの定義。

・バプテスマを受けたメンバーだけが与るコミュニオン。

・コミュニオンに与る資格を有する、バプテスマを受けたメンバー(現住陪餐会員)。

・そのアーキタイプとしての「最後の晩餐」

・「最後の晩餐」に出席し、共に食事をしたのは、誰であったか?

・12使徒である。

・12使徒は、全員、バプテスマを受けたメンバーであったか?

・その点は、決して定かではない。

・なんとなれば、「イエスご自身は水のバプテスマを授けなかった」と福音書が証言しているからである。

・では、12使徒は、イエスからではなく、いったい誰から、水のバプテスマを受けたのか?

・12使徒のうち、もともと洗礼者ヨハネの弟子であった者たちは、洗礼者から水のバプテスマを受けていた。

・それでは、12使徒の残りの者たちは、誰から水のバプテスマを受けたのであるか?

・まず、洗礼者の弟子でなかったのであるから、洗礼者からであったとは、考えられない。

・次に、もともと洗礼者の弟子であった使徒仲間から、水のバプテスマを授けてもらった可能性が、ないわけではない。

・「トマスは、あるいは、レビは、ペトロから、または、アンデレから、水の洗礼を受けたのか?」

・正典は、その点について沈黙しており、われわれは、状況から類推することが出来るだけである。

・ただし、12使徒の全員が、ナザレのイエスご自身から水の洗礼を受けたのでは「ない」ことだけは、確実である。

・イエスご自身からではなく、洗礼者ヨハネから受けた水の洗礼は、「キリスト者の洗礼」として、有効であるか?

・「キリスト者の洗礼」の意味するところが、悔改めのバプテスマである、と言う限りにおいては、有効である。すなわち、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた者は、悔い改めたことのしるしとして、洗礼を受けたのである。

・12使徒の残りの者たち、すなわち、洗礼者の洗礼を受けなかった可能性があり、かつ、ナザレのイエスの洗礼をも受けなかった可能性のある者たちは、洗礼を欠いているゆえに、悔い改めたことの無い者たちとみなされるべきであるか?

・そうではない。悔改めは、内面的なことであり、悔い改めたことの目に見えるしるしが、水の洗礼である。水の洗礼を欠いていることは、悔い改めていないことにはならない。水の洗礼を受ける機会を欠いていたということだけである。

・12使徒の残りの者たちは、水の洗礼を受ける機会を欠いていたにもかかわらず、内面において悔い改めていたということを、言い得るか?

・言い得る。ナザレのイエスのメッセージは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」であった。12使徒の残りの者たちが使徒たり得たのは、このイエスのメッセージに聞き従ったからである。すなわち、彼らは、悔い改めよ、との音信を聞き、信じて、従った。この場合、イエスに信従したことが、彼らが内面において悔い改めていたことの外的なしるしである。

・それでは、「最後の晩餐」に与る資格は、結局のところ、何であるか? バプテスマを受けた者であることか?

・そうとは言えない。むしろ、水のバプテスマを受ける機会がなかったが、しかし、イエスの音信を聞いて、イエスに従った者たちが、「最後の晩餐」に招かれたのである。

・イエスに信従する者たちが、イエスと共なる食事に招かれるとき、バプテスマの有無は障壁となり得るか?

・なり得ない。晩餐の主人であるイエスは、バプテスマの有無による入場制限をなさらなかったことは、福音書に明白である。

父と子と聖霊

・父と子から聖霊が発出する。

・生まれるのではない。

・父から生まれるのは子ひとりのみである。

・父と子とは本質において分つことができず、権能の栄光とにおいて全く同等である。

・父の本質は愛であり、その愛ゆえに、父から子へと聖霊を発出する。

・子の本質は父と同じく愛であり、その愛ゆえに、子から父へと聖霊を発出する。

・父と子の本質は分つべからざるものであり、分つことのできないひとつの本質から発出した聖霊は、ひとつの霊である。

・フランス信仰告白における「神の本質」

「唯一の神はただ一つの、単一の本質であり、霊的な性質をもち、永遠にして,見えず、変わらず,無限にして、把えがたく、言い表わせず、すべての事物にまさって全能、全知にして、限りなく善に富み、最高に正しく、限りなく憐れみに富んでおられる」

・スコットランド信仰告白と聖公会39箇条における「神の本質」

「神は見えず、身体をもたず、分けられず、変化せず、捕らえられず、言い表しがたい存在である」

・その把握不可能性。把握不可能ゆえに「否定神学」の道。

・把握し難き「神の本質」は、歴史に介入した神の、人類に対するお取り扱い(経綸)によって、明らかにされた。「経綸的三位一体」

・神の本質は、子の位格において、現れた。ベツレヘムにおける神の経綸。

・子は、わたしたちに御父をお示しになった。

・子の位格としてわたしたちに現れた「神の本質」であるイエスは、ご自身の父を、すなわち、父の位格として現れる「神の本質」を、わたしたちにお示しになった。

・主イエスキリストの御父として紹介される限りにおいてのみ、わたしたちが触れ得るところの「神の本質」すなわち、父の位格として現れされたところの「神の本質」。

・主イエスキリストの御父としてわたしたちに表わされた「神の本質」すなわち、父の位格としての「神の本質」は、イエスへの、すなわち、子の位格としての「神の本質」に対して、愛を注がれた。

・「これはわたしの愛する子。これに聞け」 ヨルダン川の洗礼場における神の経綸。

・この父の宣言に伴って、父から子へ、聖霊が注がれた。

・父の位格から、子の位格へと向って注ぎ出された、聖霊、すなわち、聖霊の位格としての「神の本質」。

・時間の空間のある一点において、御父が「これはわたしの愛する子」と宣言される時にのみ、聖霊は御父から注ぎされるのであり、それ以外の時と場所においては、聖霊は御父から注ぎ出されないのであるか?

・そうではない。「神の本質」は愛である。この愛は永遠から永遠にわたるものであり、時間と空間を超越しており、始まりもなく、終わりもなく、たえることなく、やむことがない。

・それゆえ、父から子へ聖霊が永遠に注ぎ出されている。

・父は子と本質を同じくしている。すなわち、父が愛であるように、子もまた愛である。それゆえ、父から子への愛が、永遠から永遠にわたるものであり、時間と空間を超越しており、始まりも無く、終わりも無く、たえることなく、やむことがないように、子から父への愛もまた、永遠から永遠にわたるものであり、時間と空間を超越しており、始まりも無く終わりも無く、たえることなく、やむことがない。子から父へと注がれる愛は、子の位格から父の位格へと聖霊を注ぎ出す。

・聖霊は、父の愛を子に伝える。
・聖霊は、子の愛を父に伝える。
・聖霊は、父の本質から注ぎ出される。
・聖霊は、子の本質から注ぎ出される。
・父と子とはひとつの本質である。
・それゆえ、ふたつの聖霊が注ぎ出されるのでなく、ただひとつの聖霊が注ぎ出される。

・父から受けた聖霊を、神の右の座より、わたしたちに注ぎ出される、主イエスキリスト。

・キリスト高挙による聖霊の注ぎ。ペンテコステにおける神の経綸。

・主イエスの愛を弟子たちに伝達する聖霊の注ぎ。使徒の宣教旅行における神の経綸―イエスの霊

・経綸的三位一体論は内在的三位一体論の認識根拠であり、内在的三位一体論は逆に経綸的三位一体論の実在根拠である。

・「神の本質」は、わたしたちにとって、まず子の位格において把握され、次に、子が指し示し、その子に愛を注ぐ父の位格において把握され、さらに、父が子を愛するゆえに子に注ぐ聖霊の位格において把握され、ついには、子が子を受け入れた者たちを愛するゆえにその者たちに注ぐ聖霊の位格において把握される。

・そのようにして把握された経綸的三位一体は、時間と空間の内部においてのみ、そのような三位一体であるだけでなく、永遠から永遠に、そのような三位一体である(内在的三位一体/存在論的三位一体)。

・三位一体がそのような経綸を通してそのような三位一体となったのではなく、そもそも三位一体がそのような三位一体であったので、その三位一体が時空の連続体の内部に介入したときに、そのような三位一体として、われわれは把握し得たのである。

契約の共同体

・契約の五つの要件。

・契約の主体としての「神」。

・契約のもう一方の主体としての「人間」。

・契約の内容としての「法」。

・契約で結ばれた者たちが構成する「共同体」。

・契約で結ばれた者たちが身に帯びる可視的な「しるし」。

・契約の内容としての「法」は、今日、何であるか? 新約聖書正典が、それである。

・契約で結ばれた者たちが構成する「共同体」は、今日、何であるか? 地域教会が、それである。

・契約で結ばれた者たちが身に帯びる可視的な「しるし」は、今日、何であるか? 信仰告白が、それである。

・契約で結ばれた者たちが、自らの身に帯びる可視的な「しるし」として共同で行なうシンボルとしての「信仰告白」。

・信仰告白は、共同体が集まって、共同で行なうものである。(ヘー・カレー・ホーモロギア)

・ホーモロギアであって、決して、モノロギアではない。

・信仰告白を共に集まって唱える共同体は、その共同体に新しい成員を迎えるにあたり、その候補者を試問する。

・信仰告白をどのように受け入れているかということについての試問。

・何を試問するのか?

 →三位一体を受け入れていることについて。
 →ナザレのイエスが人となりたもうた神であることについて。
 →イエスの犠牲の死と復活と昇天と再臨について。
 →聖霊と共同体について。
 →終末の出来事について。

・だれが試問するのか?

 →全会衆が。
 →長老会が。
 →監督が。

・問われ、試されて、合格したものは、どのように扱われるのか?

 →共同体が集まった場において、シンボルをもって、迎え入れられる。
 →目に見える「しるし」としての、信仰告白と洗いによって。

・合格した候補者が、そのような場において唱える信仰告白は、単独の行為(モノロギア)か?

・そうではない。共同体が共に集まって唱えるホーモロギアを、自らも主体的にそう信じそう唱えるとの意志を表明するための、目に見える「しるし」である。つまり、新しいメンバーがホーモロギアに加わるという、個人の意志の表明である。

・共同体のホーモロギアに加わることを自ら表明した個人に対して、共同体は、何をほどこすか?

・共同体は、彼を「世」から取り出してキリストのからだに加えたもうた神の御手を、目に見える「しるし」をもって表わそうとする。すなわち、彼を、目にみえるシンボルを用いて、世から切り離し、かつ、彼を、目に見えるシンボルを用いて、共同体に加える。

・切り離すシンボルとしての「水」。

・水は旧世界が<滅んでいる>ことの「しるし」である。

・共同体に加えるシンボルとしての「塩」。

・塩は旧世界の中における<新しきもの>の「しるし」である。

・共同体に加えるシンボルとしての「油」。

・油は<聖霊の交わり>の「しるし」である。

・地球上の東側の共同体は、水と共に塩と油をシンボルとして保持した。

・地球上の西側の共同体は、水を保持し、塩と油はシンボルとして用いることを止めた。

・塩を用いなければ、候補者は<新しきもの>になり得ないか?

・否。候補者はキリストによって<新しきもの>にされている。共同体は、その事実を「塩」を用いて可視的に表わそうとしたのである。しかし、塩というシンボルが取り去られても、キリストのみわざの本質は、変わらない。

・油を用いなければ、候補者は<聖霊の交わり>に入り得ないか?

・否。候補者はキリストによって<聖霊の交わり>に入られている。共同体は、その事実を「油」を用いて可視的に表わそうとしたのである。しかし、油というシンボルが取り去られても、キリストのみわざの本質は、変わらない。

・水を用いなければ、候補者がそこから取り出されたところの「旧世界」は<滅んでいる>のではなく、存続しているのか?

・否。候補者がそこから取り出されたところの「旧世界」は、キリストの十字架によってすでに<滅んでいる>。共同体は、その事実を「水」を用いて可視的に表わそうとしたのである。しかし、水というシンボルが取り去られても、キリストのみわざの本質は、変わらない。

・それでは、キリストのみわざの本質とは、何か?

 →キリストのみわざによって、その人がそこから取り出されたところの「旧世界」が、すでに<滅んでいる>ことである。
 →キリストのみわざによって、その人が、すでに<新しきもの>とされていることである。
 →キリストのみわざによって、その人が、すでに<聖霊の交わり>に入れられていることである。

・その人が、キリストのそのようなみわざによって本質的な変化を遂げていることを、共同体は、どのような客観的な指標によって、判断するのか?

・試問によって、である。

・すなわち、共同体の信仰告白を、その人が、真に自分の告白として主体的に告白しているかどうかを、問うことによって。

・さらに、その人が、真に自分の告白として告白した信仰を、共同体の生活において生きているかどうかを、見ることによって。

・告白した信仰を、共同体の生活において生きるとは、どういうことか?

 →その人が、そこから取り出されたところの「旧世界」を<滅んでいる>ものと思い見なしつつ生活することによって。すなわち、旧世界にあって<新しきもの>として、生きることによって。
 →その人が、共同体が共に集まる場に自分も共に集まり、共同体の共同の行為としての<礼拝>(レイトゥルギア)を共に行なうことによって。




ウェストミンスター信条第10章

・曰く、第2節「有効な召命は、神の無償の特別なる恩恵のみによるもので、決して、人間の中に予見される何事かに由来するものではない。人間は、聖霊によって活かされ、新しくされるまでは、それについては全く受け身であり、彼は聖霊によって、この召しに答え、そこに提供され、もたらされる恩恵をいただき得るようにされる」

・人間の側に、選びに値すべきいかなる条件もないのだと言われている。

・人間が、それがいかなる人間であれ、人間の側の条件に全く左右されることなく、ただ神の自由な選びによってのみ、人間は救いに選ばれる、つまり、召命に対して聖霊の働きかけによって応答するようにされる。

・これが、そして、これのみが、有効な召命である。

・曰く、第3節「幼死する選ばれた幼児たちは、好む所で、好む時に、好む方法で働きたもう御霊を通して、キリストによって再生せしめられ、救われる」

・幼くて死んだ者らは、その幼さゆえに、信仰告白をすることなく、死んでゆく。彼らは、召命に対して、目に見え、耳で聞こえるかたちで、応答することなく死んだ。しかもなお、彼らは救われ得るのだと言われている。

・幼死した者らは、どの時点で、召命に応答したのか? 生前か、死後か、その中間においてか?

・幼死した者らが、召命に対して聖霊の働きかけによって応答するようにされるのは、生前でもあり、死後でもあり、その中間においてでもある。なぜなら、「幼児たちは、好む所で、好む時に、好む方法で働きたもう御霊を通して、キリストによって再生せしめられ、救われる」

・幼児らが召命に対して聖霊の働きかけによって応答した、という事実は、幼児らが行なう何らかの外見的な「しるし」によって周囲の世界に表現され、証人たちに対してあかしされるのであるか?

・必ずしもそうではない。「生きている証人」たちに対して、幼児が召命に応答したことをいかなる「しるし」によっても伝えることなく死して行くことは、多い。

・「しるしが目に見えないのであれば、それは、いかなる意味でもしるしではあり得ない!」

・外見的な「しるし」の欠落した、召命への応答というものが、あるのか?

・「好む方法で働きたもう御霊」は、縛られたまわず、常に自由である。

・幼児が召命への外見的な「しるし」をもって応答せずとも、御霊は幼児を召命に対して応答せしめることがお出来になる。御霊は、生きている証人たちが期待する方法ではなく、生きている証人たちが決めた方法でもなく、「ご自分の好む方法」で働き給うのであるから。

・聖霊の救いの働きにおける自由!

・この自由は、場所に限定されない。

・この自由は、時間に限定されない。

・この自由は、方法に限定されない。

・それでは、この自由は、幼児に、さらに、幼死した者たちに対してのみ、限定されることになるのであるか?

・さらに続けて曰く、第3節「外見的には御言の奉仕によって召され得ないでいる他のすべての選ばれたものたちも同様である」

・「外見的な御言の奉仕」とは、説教壇での福音の説教であり、説教後の応答の招きである。

・「説教壇での福音の説教」によって召され得なかった者たち、それゆえ、説教後の招きに応答する機会についに一度も与ることがなかった者たちとは、誰か?

・福音を一度も聞いたことがない者たちであって、かつ、幼児でもなく、幼死したのでもない者たちである。

・福音を一度も聞いたことがない者が、有効召命に対して聖霊によって応答するよう選ばれることが、あり得るのか?

・「外見的には御言の奉仕によって召され得ないでいる他のすべての選ばれたものたち」(!)

・彼らは、いったい誰か? どこにいるのか? なんという名前の人々か?

・キリストの教会(すなわち説教壇で福音の説教の務めを行なう者たち)は、彼らを知らないし、また、知り得ない。なぜなら、彼らは一度も説教壇の前に座ったことがなく、座ったことがないゆえに福音を聞いたことがなく、福音を聞いたことがないゆえに応答したことがなく、応答したことがないゆえに「交わり」に入って来ることもなかった者たちであるゆえに。

・これら、キリストの教会に対する「匿名の人々」は、いかなる要件を満たしたので、神によって選ばれたのか?

・いかなる要件を満たしたのでもない。なぜなら、「有効な召命は、神の無償の特別なる恩恵のみによるもので、決して、人間の中に予見される何事かに由来するものではない」ゆえに。

・これら「匿名の人々」は、いかなる要件を満たしたわけでもないのに、神によって選ばれ、有効な召命に応答するようにと定められた。

・「匿名の人々」は、どのようにして再生せしめられ、救われるのか? 「同様にして」すなわち「幼死した選ばれた幼児たちと同様にして」

・幼死した者らを、聖霊が、好む所で、好む時に、好む方法で、再生せしめ、救いなさるように、これら「匿名の人々」を、聖霊は、好む所で、好む時に、好む方法で、再生せしめ、救いなさる。

・「生きている証人」たちは、これら「匿名の人々」が、どこで、いつ、どのような方法で、有効召命に応答したかを、外見的な「しるし」によって知ることができるか?

・できない。なぜなら、「生きている証人」たちが知っている「しるし」とは、唯一、「説教壇での福音の説教に対する応答」だけであるのだから。

・それでは、「生きている証人」たちが、見聞きし、慣れ親しんでいるところの「しるし」すなわち、唯一のしるしであるところの「説教壇での福音の説教に対する応答」は、「生きている証人」たちが知る限りにおいての、救いを保障する確実な「しるし」であり得るのか?

・そうではない。

・「説教壇での福音の説教」に対して、「わたしは信じます」と応答した者が、なお、救われない、ということがあり得る。

・さらに続けて曰く、第4節「選ばれていない他のものたちは、御言の奉仕によって召され、御霊の何らかの一般的な働きにあずかるかもしれないが、真実には決してキリストに来たらず、したがって救われ得ない」

・「説教壇での福音の説教」に応答し、信仰告白し、教育と訓練を受け、洗礼を授けられ、主の会衆に加わり、「外見的」な信仰生活を忠実に行なった者らが、それでいてなお、選ばれておらず、決して真実にはキリストに来たらず、したがって救われ得ないことがある、と明言されている。

・「恐れおののいて、汝の救いの達成につとめよ!」

・「生きている証人」たちが知っている外見的な「しるし」は、確実な救いのしるし、選びのしるしでは、あり得ない。なぜなら、そのような外見的な「しるし」を表わした者であって、なお、選ばれておらず、それゆえ、救われない者がいる、と言われているのであるから。

・ある外見的な「しるし」がある。それは、救いの「しるし」であると期待されている。しかし、それが必ずしも救いの「しるし」であるわけではない、とも言われている。

・あることの「しるし」であるものが、同時に、あることの「しるし」ではない場合、そのような「しるし」は、果たして「しるし」であるとみなすことが出来るのか?

・「説教壇での福音の説教に応答すること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「信仰告白すること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「教育と訓練を受けること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「洗礼を授けられること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「主の会衆に加わること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「外見的な信仰生活を忠実に送ること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「だれが人の心を知りえようか? 霊のみが知る」

・神に向って「アバ父よ!」と叫ばしめる聖霊は、その叫びが、人の本心からなされているものか、外見的形式を単に模倣したものに過ぎないかを、真実に知りたもう。

・なぜなら、「叫ばしめるのは、聖霊ご自身である」から。

・そのような応答、すなわち、神に向って「アバ父よ!」と叫ぶ応答は、あの「しるし」すなわち、「生きている証人たち」が必要としている、外見的な「しるし」であり得るか?

・そうであるとも、そうではないとも。

・聖霊が叫ばしめていたもうのなら、「アバ父よ!」の叫びは、確実なる選びの「しるし」であり、確実なる救いの「しるし」である。

・聖霊が叫ばしめているのではなく、その人が単に外見的形式を模倣したものに過ぎないのなら、「アバ父よ!」の叫びは、ほかのすべての「しるし」と同様にして、つまり、説教壇での福音の説教への応答、信仰告白、教育と訓練、洗礼、主の会衆の交わり、外見的な信仰生活の忠実、等々と同様にして、確実なる選びの「しるし」ではあり得ないし、確実なる救いの「しるし」でもあり得ない。

・では、「しるし」が、ほんとうの「しるし」であることは、だれが知るのか?

・まず聖霊が知り給う。子も知り給う。そうして、御父が知り給う。その上で、人の霊も知るであろう。「人の思いを知るのは人の霊である」と言われているのであるから。

・聖霊が、その人をして、本心から「アバ父よ!」と神に向って叫ばしめるとき、その人は、自分が本心からそれを叫んでいることを、知り得るか?

・さらに第18章に進んで曰く、第1節「この確かさは、誤り易い希望に基づく単なる憶測的推察的な信念ではなく、救いの約束の聖き真理に基づく信仰の誤ることなき保証であり、この約束が向けられてなされたこれらの恩恵の内的確証であり、われわれが神の子どもであることをわれわれの霊と共に証明するところの子とせられることの聖霊の証言であり、この御霊は、贖いの日までわれわれを封印するわれわれの相続財産の手付金である」

・「誤ることなき保証」である「内的確証」(!)

・「アバ父よ!」と人が叫ぶとき、叫ばしめているのは聖霊である。ゆえに、聖霊は、この叫びが、確実なる救いの「しるし」、確実なる選びの「しるし」であることを、知ってい給う。

・「アバ父よ!」と人が叫ぶとき、叫ばしめているのが聖霊であるならば、叫ぶ人は、この叫びが本心からなされたものであることを知るゆえに、この叫びが、確実なる救いの「しるし」、確実なる選びの「しるし」であることを、自ら知る。

・あかしするものが二つある。聖霊と、その人の霊である。

・聖霊のあかしと、その人のあかし。これら二つのあかしの内的な一致としての「内的な確証」

・「内的な確証」があるとき、すなわち、聖霊のあかしと、その人のあかしとが、内的に一致しているとき、そのあかしは、「誤ることなき保証」である。

・「内的な確証」がもたらすところの、まったき平安。

・「内的な確証」がないとき、すなわち、聖霊のあかしと、その人のあかしとが、内的に不一致であるとき、そのあかしは、「誤ることなき保証」では、あり得ない。

・「内的な確証」がないとき、人は、自分にだけは、そのことがわかる。

・「内的な確証」は、それでは、本人に対してのみは、絶対に盤石であるのか?

・そうでもあり、そうではないとも。

・さらに続けて曰く、第19章4節「まことの信仰者たちも彼らの救いの保証を様々な仕方で、例えば、その保持に怠惰であったり、良心を害い、聖霊を悲しませるような特殊な罪に陥ったり、突然の強烈な誘惑に遭ったり、神が聖顔の光を撤去したり、神を恐れるものでありながら、闇の中を歩いて、光を持たなかったりして、動揺させ、減退させ、中絶させたりするかも知れない。しかし彼らは、神の種子、信仰の生命、キリストと兄弟との愛、心の真剣さ、義務の観念などを全く欠如することはなく、それらのものから聖霊の働きによりこの保証が適当なときに復活させられ、それらによって、やがて彼らは、全き絶望から免れしめられる」

・「内的な確証」は、真に選ばれ、真に救われた者であっても、撤去され、動揺され、減退され、中絶されることがある。

・真に選ばれ、真に救われた者が、「内的な確証」を失って絶望するとき、その人は、選びから外されたわけでもなく、救いから漏れたわけでもない。

・「内的な確証」は、それが感じられる限りにおいて、「誤ることなき保証」である。

・「内的な確証」は、それが感じられなくなったとき、「誤ることなき保証」であることを、やめるのか?

・そうではない。

・「内的な確証」は、依然として「誤ることなき保証」である。そのような「内的な確証」は、通常のキリスト者の生活において、生き生きと実感される時があり、徐々に減退していく時があり、まったく中絶される時がある。

・「内的な確証」を、もはや感じなくなったとしても、なおも「誤ることなき保証」であり続けるところの、「内的な確証」

・砂漠の経験、霊魂の荒み、魂の暗夜、神の不在の経験、月曜日の憂鬱、黒い犬、長いトンネル。。。

・「内的な確証」を、もはや感じなくなったとしても、人は、見ゆるところによらず、見えざるところによって、歩まなければならない。

・「トンネル通過中の列車から飛び降りてはいけない。抜け出る時が来る」(カール・ラーソン)

・「内的な確証」を失い、神の不在の経験に苦しんだ聖徒たち。。。高倉徳太郎、オズワルド・チェンバーズ、マザー・テレサ

・「内的な確証」を失い、絶望して、自らの命を絶った、高倉徳太郎とチェンバーズ。

・「内的な確証」を失い、絶望しつつも、信じて生き続けた、マザー・テレサ。

・「内的な確証」は、失われてもなお「誤ることなき保証」であるのならば、その救いが保証されているのは、高倉か、チェンバーズか、テレサか、あるいは、彼ら全員か?

・「生きている証人」であるわたしたちは、他のすべての外見的「しるし」がそうであったのと同様、この場合においても、何も知り得ない。



ニューパースペクティブについて

・改革派サークルの中で話題となっている「新パウロ観」(New Perspective on Paul)は、どういうものか?

・ニューパースペクティブ、新パウロ観とは、パウロ神学の新解釈の意。

・アングリカン神学者N.T.ライト、J.D.G.ダンなど。

・その説くところ:

 旧約時代にも「信仰による義」はあった。
 ファリサイ派の律法学者は、行為義認でなく、信仰義認も理解していた。
 ファリサイ派の論点。信仰による義。義とされた者らの「信仰の共同体」。共同体成員は古き契約で規制される。
 パウロの論点。信仰による義。義とされた者らの「信仰の共同体」。共同体成員は新しき契約で規制される。
 共同体成員の「しるし」としての割礼→幼児洗礼
 
・その問題点:

 義認は、キリストの義の注入ではない。関係における義である。
 義認は信仰だけによらない。義とされた信者が「信仰の共同体」において果たすべき分がある。
 ↑
 義認論と聖化論の議論を混同しているのか???

 果たした分に応じて裁かれる。
 義認は、客観的なものであって、主観的なものではない。
 義認は、体験でもなく主観的な確証でもない。
 義とされた信者が「信仰の共同体」において分を果たすことで客観的に検証されるものである。
 幼児洗礼は幼児を「信仰の共同体」に加える。すなわち、神との共同体的関係に入らせる。
 主観的な救いの確証を持つ者らのボランタリーな団体ではない。
 客観的な「しるし」である幼児洗礼を受けた者らの契約共同体である。
 契約共同体の成員を規制するのは、新しき契約である。
 契約には祝福と呪いが含まれている。
 契約を履行する者は、義とされ、祝福を受ける。
 契約を履行しない者は、裁かれ、呪いを受ける。
 契約共同体は三位一体の神の構造の中に起源を持つ。
 地上のキリストの義の注入にあらず。復活のキリストとの結合である。
 復活のキリストと結合されて、いますでに共に王座に着いて支配している。
 契約共同体は、キリストの王座の支配を、地上において、どの程度分かち合うのか? 教会生活においてのみか? 社会生活においてもか? 政治と国家においても分かち合うのか?

・教会と国家の分離は、契約共同体が王座に着いている場合、いかにして担保され得るか?
 
・あなたが救われているかどうかだって? あなたの主観は関係ない。重要なのは洗礼という客観的な「しるし」であり、あなたが契約共同体の成員として、契約を誠実に履行することだ。キリストの贖いによって神との契約関係の中に入れられたあなたは、その契約関係の中で、契約共同体の一員として、契約を誠実に履行することによって、義とされる。

・契約共同体の成員の全員が、選ばれた者たちであるのか? そうではないと言われている。

・契約共同体の成員の中で、「有効な選び」を受けた者たちと、「契約的な選び」を受けた者たちと、二種類いる。

・「契約的な選び」を受けた者たちは、幼児洗礼を受け、契約共同体の成員となり、契約を誠実に履行するが、それは外見的なことに過ぎないので、義とされることはなく、裁きの日に救いから漏れる。

・「新パウロ観」の広大なキャンプの中における「フェデラル・ヴィジョン」と「オーバン・アベニュー神学」(!)

・「かの再建主義の悪夢の再来?」

・セオノミスト曰く、「世界を征服せよ!」

・フェデラル・ヴィジョニスト曰く、「まず神の家を清めよ!」

・それでは聞くが、神の家の掃除が完了したあかつきには、世界の征服を始めるのか?

・神の家(契約共同体)を清める「新しい契約」。それは次の段階として世界を清める「新しい契約」でもあるのか?

・新しい契約の内容とは? 契約共同体の成員は、石打の公開処刑にされる可能性があるのか、ないのか?

・「契約共同体による社会実験」 かのヴァンティル弁証学の「前提主義」が試みようとした、あの社会実験?

・救いの主観的な確証は、新約聖書の産物ではなく、ニューイングランドのリバイバル説教者の発明品だったのか?

・「生きているのはもうわたしではない。キリストがわたしのうちに生きている」というパウロの「主観的確証」は、主観的確証ではないのか?