神学的断想

潜在意識に頑固にこびりついていたのは、なにかまだ説明のついていないものがあるという表現不能の確信だった。<チェスタートン>

ウェストミンスター信条第10章

・曰く、第2節「有効な召命は、神の無償の特別なる恩恵のみによるもので、決して、人間の中に予見される何事かに由来するものではない。人間は、聖霊によって活かされ、新しくされるまでは、それについては全く受け身であり、彼は聖霊によって、この召しに答え、そこに提供され、もたらされる恩恵をいただき得るようにされる」

・人間の側に、選びに値すべきいかなる条件もないのだと言われている。

・人間が、それがいかなる人間であれ、人間の側の条件に全く左右されることなく、ただ神の自由な選びによってのみ、人間は救いに選ばれる、つまり、召命に対して聖霊の働きかけによって応答するようにされる。

・これが、そして、これのみが、有効な召命である。

・曰く、第3節「幼死する選ばれた幼児たちは、好む所で、好む時に、好む方法で働きたもう御霊を通して、キリストによって再生せしめられ、救われる」

・幼くて死んだ者らは、その幼さゆえに、信仰告白をすることなく、死んでゆく。彼らは、召命に対して、目に見え、耳で聞こえるかたちで、応答することなく死んだ。しかもなお、彼らは救われ得るのだと言われている。

・幼死した者らは、どの時点で、召命に応答したのか? 生前か、死後か、その中間においてか?

・幼死した者らが、召命に対して聖霊の働きかけによって応答するようにされるのは、生前でもあり、死後でもあり、その中間においてでもある。なぜなら、「幼児たちは、好む所で、好む時に、好む方法で働きたもう御霊を通して、キリストによって再生せしめられ、救われる」

・幼児らが召命に対して聖霊の働きかけによって応答した、という事実は、幼児らが行なう何らかの外見的な「しるし」によって周囲の世界に表現され、証人たちに対してあかしされるのであるか?

・必ずしもそうではない。「生きている証人」たちに対して、幼児が召命に応答したことをいかなる「しるし」によっても伝えることなく死して行くことは、多い。

・「しるしが目に見えないのであれば、それは、いかなる意味でもしるしではあり得ない!」

・外見的な「しるし」の欠落した、召命への応答というものが、あるのか?

・「好む方法で働きたもう御霊」は、縛られたまわず、常に自由である。

・幼児が召命への外見的な「しるし」をもって応答せずとも、御霊は幼児を召命に対して応答せしめることがお出来になる。御霊は、生きている証人たちが期待する方法ではなく、生きている証人たちが決めた方法でもなく、「ご自分の好む方法」で働き給うのであるから。

・聖霊の救いの働きにおける自由!

・この自由は、場所に限定されない。

・この自由は、時間に限定されない。

・この自由は、方法に限定されない。

・それでは、この自由は、幼児に、さらに、幼死した者たちに対してのみ、限定されることになるのであるか?

・さらに続けて曰く、第3節「外見的には御言の奉仕によって召され得ないでいる他のすべての選ばれたものたちも同様である」

・「外見的な御言の奉仕」とは、説教壇での福音の説教であり、説教後の応答の招きである。

・「説教壇での福音の説教」によって召され得なかった者たち、それゆえ、説教後の招きに応答する機会についに一度も与ることがなかった者たちとは、誰か?

・福音を一度も聞いたことがない者たちであって、かつ、幼児でもなく、幼死したのでもない者たちである。

・福音を一度も聞いたことがない者が、有効召命に対して聖霊によって応答するよう選ばれることが、あり得るのか?

・「外見的には御言の奉仕によって召され得ないでいる他のすべての選ばれたものたち」(!)

・彼らは、いったい誰か? どこにいるのか? なんという名前の人々か?

・キリストの教会(すなわち説教壇で福音の説教の務めを行なう者たち)は、彼らを知らないし、また、知り得ない。なぜなら、彼らは一度も説教壇の前に座ったことがなく、座ったことがないゆえに福音を聞いたことがなく、福音を聞いたことがないゆえに応答したことがなく、応答したことがないゆえに「交わり」に入って来ることもなかった者たちであるゆえに。

・これら、キリストの教会に対する「匿名の人々」は、いかなる要件を満たしたので、神によって選ばれたのか?

・いかなる要件を満たしたのでもない。なぜなら、「有効な召命は、神の無償の特別なる恩恵のみによるもので、決して、人間の中に予見される何事かに由来するものではない」ゆえに。

・これら「匿名の人々」は、いかなる要件を満たしたわけでもないのに、神によって選ばれ、有効な召命に応答するようにと定められた。

・「匿名の人々」は、どのようにして再生せしめられ、救われるのか? 「同様にして」すなわち「幼死した選ばれた幼児たちと同様にして」

・幼死した者らを、聖霊が、好む所で、好む時に、好む方法で、再生せしめ、救いなさるように、これら「匿名の人々」を、聖霊は、好む所で、好む時に、好む方法で、再生せしめ、救いなさる。

・「生きている証人」たちは、これら「匿名の人々」が、どこで、いつ、どのような方法で、有効召命に応答したかを、外見的な「しるし」によって知ることができるか?

・できない。なぜなら、「生きている証人」たちが知っている「しるし」とは、唯一、「説教壇での福音の説教に対する応答」だけであるのだから。

・それでは、「生きている証人」たちが、見聞きし、慣れ親しんでいるところの「しるし」すなわち、唯一のしるしであるところの「説教壇での福音の説教に対する応答」は、「生きている証人」たちが知る限りにおいての、救いを保障する確実な「しるし」であり得るのか?

・そうではない。

・「説教壇での福音の説教」に対して、「わたしは信じます」と応答した者が、なお、救われない、ということがあり得る。

・さらに続けて曰く、第4節「選ばれていない他のものたちは、御言の奉仕によって召され、御霊の何らかの一般的な働きにあずかるかもしれないが、真実には決してキリストに来たらず、したがって救われ得ない」

・「説教壇での福音の説教」に応答し、信仰告白し、教育と訓練を受け、洗礼を授けられ、主の会衆に加わり、「外見的」な信仰生活を忠実に行なった者らが、それでいてなお、選ばれておらず、決して真実にはキリストに来たらず、したがって救われ得ないことがある、と明言されている。

・「恐れおののいて、汝の救いの達成につとめよ!」

・「生きている証人」たちが知っている外見的な「しるし」は、確実な救いのしるし、選びのしるしでは、あり得ない。なぜなら、そのような外見的な「しるし」を表わした者であって、なお、選ばれておらず、それゆえ、救われない者がいる、と言われているのであるから。

・ある外見的な「しるし」がある。それは、救いの「しるし」であると期待されている。しかし、それが必ずしも救いの「しるし」であるわけではない、とも言われている。

・あることの「しるし」であるものが、同時に、あることの「しるし」ではない場合、そのような「しるし」は、果たして「しるし」であるとみなすことが出来るのか?

・「説教壇での福音の説教に応答すること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「信仰告白すること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「教育と訓練を受けること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「洗礼を授けられること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「主の会衆に加わること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「外見的な信仰生活を忠実に送ること」は、選びの「しるし」でも、救いの「しるし」でもない場合がある。

・「だれが人の心を知りえようか? 霊のみが知る」

・神に向って「アバ父よ!」と叫ばしめる聖霊は、その叫びが、人の本心からなされているものか、外見的形式を単に模倣したものに過ぎないかを、真実に知りたもう。

・なぜなら、「叫ばしめるのは、聖霊ご自身である」から。

・そのような応答、すなわち、神に向って「アバ父よ!」と叫ぶ応答は、あの「しるし」すなわち、「生きている証人たち」が必要としている、外見的な「しるし」であり得るか?

・そうであるとも、そうではないとも。

・聖霊が叫ばしめていたもうのなら、「アバ父よ!」の叫びは、確実なる選びの「しるし」であり、確実なる救いの「しるし」である。

・聖霊が叫ばしめているのではなく、その人が単に外見的形式を模倣したものに過ぎないのなら、「アバ父よ!」の叫びは、ほかのすべての「しるし」と同様にして、つまり、説教壇での福音の説教への応答、信仰告白、教育と訓練、洗礼、主の会衆の交わり、外見的な信仰生活の忠実、等々と同様にして、確実なる選びの「しるし」ではあり得ないし、確実なる救いの「しるし」でもあり得ない。

・では、「しるし」が、ほんとうの「しるし」であることは、だれが知るのか?

・まず聖霊が知り給う。子も知り給う。そうして、御父が知り給う。その上で、人の霊も知るであろう。「人の思いを知るのは人の霊である」と言われているのであるから。

・聖霊が、その人をして、本心から「アバ父よ!」と神に向って叫ばしめるとき、その人は、自分が本心からそれを叫んでいることを、知り得るか?

・さらに第18章に進んで曰く、第1節「この確かさは、誤り易い希望に基づく単なる憶測的推察的な信念ではなく、救いの約束の聖き真理に基づく信仰の誤ることなき保証であり、この約束が向けられてなされたこれらの恩恵の内的確証であり、われわれが神の子どもであることをわれわれの霊と共に証明するところの子とせられることの聖霊の証言であり、この御霊は、贖いの日までわれわれを封印するわれわれの相続財産の手付金である」

・「誤ることなき保証」である「内的確証」(!)

・「アバ父よ!」と人が叫ぶとき、叫ばしめているのは聖霊である。ゆえに、聖霊は、この叫びが、確実なる救いの「しるし」、確実なる選びの「しるし」であることを、知ってい給う。

・「アバ父よ!」と人が叫ぶとき、叫ばしめているのが聖霊であるならば、叫ぶ人は、この叫びが本心からなされたものであることを知るゆえに、この叫びが、確実なる救いの「しるし」、確実なる選びの「しるし」であることを、自ら知る。

・あかしするものが二つある。聖霊と、その人の霊である。

・聖霊のあかしと、その人のあかし。これら二つのあかしの内的な一致としての「内的な確証」

・「内的な確証」があるとき、すなわち、聖霊のあかしと、その人のあかしとが、内的に一致しているとき、そのあかしは、「誤ることなき保証」である。

・「内的な確証」がもたらすところの、まったき平安。

・「内的な確証」がないとき、すなわち、聖霊のあかしと、その人のあかしとが、内的に不一致であるとき、そのあかしは、「誤ることなき保証」では、あり得ない。

・「内的な確証」がないとき、人は、自分にだけは、そのことがわかる。

・「内的な確証」は、それでは、本人に対してのみは、絶対に盤石であるのか?

・そうでもあり、そうではないとも。

・さらに続けて曰く、第19章4節「まことの信仰者たちも彼らの救いの保証を様々な仕方で、例えば、その保持に怠惰であったり、良心を害い、聖霊を悲しませるような特殊な罪に陥ったり、突然の強烈な誘惑に遭ったり、神が聖顔の光を撤去したり、神を恐れるものでありながら、闇の中を歩いて、光を持たなかったりして、動揺させ、減退させ、中絶させたりするかも知れない。しかし彼らは、神の種子、信仰の生命、キリストと兄弟との愛、心の真剣さ、義務の観念などを全く欠如することはなく、それらのものから聖霊の働きによりこの保証が適当なときに復活させられ、それらによって、やがて彼らは、全き絶望から免れしめられる」

・「内的な確証」は、真に選ばれ、真に救われた者であっても、撤去され、動揺され、減退され、中絶されることがある。

・真に選ばれ、真に救われた者が、「内的な確証」を失って絶望するとき、その人は、選びから外されたわけでもなく、救いから漏れたわけでもない。

・「内的な確証」は、それが感じられる限りにおいて、「誤ることなき保証」である。

・「内的な確証」は、それが感じられなくなったとき、「誤ることなき保証」であることを、やめるのか?

・そうではない。

・「内的な確証」は、依然として「誤ることなき保証」である。そのような「内的な確証」は、通常のキリスト者の生活において、生き生きと実感される時があり、徐々に減退していく時があり、まったく中絶される時がある。

・「内的な確証」を、もはや感じなくなったとしても、なおも「誤ることなき保証」であり続けるところの、「内的な確証」

・砂漠の経験、霊魂の荒み、魂の暗夜、神の不在の経験、月曜日の憂鬱、黒い犬、長いトンネル。。。

・「内的な確証」を、もはや感じなくなったとしても、人は、見ゆるところによらず、見えざるところによって、歩まなければならない。

・「トンネル通過中の列車から飛び降りてはいけない。抜け出る時が来る」(カール・ラーソン)

・「内的な確証」を失い、神の不在の経験に苦しんだ聖徒たち。。。高倉徳太郎、オズワルド・チェンバーズ、マザー・テレサ

・「内的な確証」を失い、絶望して、自らの命を絶った、高倉徳太郎とチェンバーズ。

・「内的な確証」を失い、絶望しつつも、信じて生き続けた、マザー・テレサ。

・「内的な確証」は、失われてもなお「誤ることなき保証」であるのならば、その救いが保証されているのは、高倉か、チェンバーズか、テレサか、あるいは、彼ら全員か?

・「生きている証人」であるわたしたちは、他のすべての外見的「しるし」がそうであったのと同様、この場合においても、何も知り得ない。



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