神学的断想

潜在意識に頑固にこびりついていたのは、なにかまだ説明のついていないものがあるという表現不能の確信だった。<チェスタートン>

4000人の給食、5000人の給食は、、、、

「愛餐」だったのではなかろうか?

なんとなれば、、、、

・主イエスキリストを主人とする食事であり

・主イエスキリストがまずパンを取って感謝の祈りをささげ、次に、これを裂いて、分配し、さらに、魚についても同じようにされたからであり

・しかも、父なる神は、この食事の交わりを心から祝福しておられることを、「しるし」としての奇跡によって、目に見えるかたちでお示しになり

・この食事の交わりから漏れた者は、その場に居合わせた者たちの中で、ただの一人もなく

・すべての者が、信者も不信者も、バプテスマのヨハネの洗礼を受けた者も受けていない者も、イエスの弟子たちによる洗礼を受けた者も受けていない者も、ユダヤ人も異邦人も、律法学者も民衆も、つまり、ほんとうにすべてのものが、みな食べて、満腹したからである。

・さて、この食事は、人類に対する神の愛の御心が目にみえるかたちで表わされたものとしての「サクラメント」に他ならないが、これを「愛餐」と呼ぶのは当然として、「聖餐」と呼び得ないのは、なぜか?

・この食事の交わりの中心に、いと聖なるお方、すなわち、われらの主イエスキリストのいましたもうのであれば、これを「聖餐」と呼び得ぬはずがない。

・それにしても、いと聖なるお方が、感謝の祈りをささげてパンを裂き、配られたのであるから、これを「ユーカリスト」(感謝の食事)と呼び得るのは、あたりまえである。

六日間創造説宣教150周年に関する覚書

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