神学的断想

潜在意識に頑固にこびりついていたのは、なにかまだ説明のついていないものがあるという表現不能の確信だった。<チェスタートン>

チャールズ・ピーター・ワグナーの「霊的地図」について

・CPWの「霊的地図」の件について。CPWが、西方教会伝来の「恩恵と自然」という二項対立図式ではない、「恩恵と中間領域と自然」という三項図式の世界観に着眼した点は大いに評価できる。

・しかし、中間領域に対するCPWの理解に問題があった。CPWは、この中間領域に帰属する「すべての良いもの」を「贖いの賜物」というカテゴリーに移入した上で、残りの「すべての悪いもの」だけで中間領域を構成し直し、これに「悪鬼的」というレッテルを貼ったのである。

・このようなCPWの中間領域の理解であると、三項図式の世界観は結局また「善vs悪」という二項図式に収束して終わってしまうのである。

・CPWの理解において欠けていたのは、中間領域に対する主イエスキリストの「王的頭首権的統治」の概念であった。この概念を欠いていたために、CPWにとっての中間領域は、王の統治の及ばない悪鬼と邪鬼の跋扈する無法の領域となってしまったのである。

・しかし、新約聖書の言明によれば、主イエスキリストの十字架と復活の出来事によって、中間領域の諸権力は打破され、キリストの王的頭首権的統治のもとに従属させられてしまった。ゆえに、中間領域は、王的統治の領域であり、諸権力は、キリストに奉仕するしもべとされているのである。

・もちろん、諸権力は潜在的な悪鬼的本性を解消したわけではない。しかし、諸権力はすでに打破されており、キリストの王国における奉仕者とされてしまっているゆえに、主の再臨直前のバビロン的状況より前に中間領域が悪に収束するということはなく、逆に善に収束するということもない。

・中間領域は、その諸権力が十字架によって打破され、その結果、キリストの統治したもう王国において人間の生存の保障の務めを託されているのであるから、それはすべて「贖いの賜物」である。そうして、それが悪に収束することも善に収束することもない。それは時に善であり時に悪となる。

・中間領域が、人間の秩序ある安寧な生活を保障する限りにおいて、それは善である。中間領域が、人間の人格の自由を破壊し生存を脅かす限りにおいて、それは悪である。それゆえキリスト者は中間領域に対して現実的な利益を期待するだけであり、是は是、非は非の対応をするだけである。

・しかし、中間領域を王の統治の及ばない悪鬼と邪鬼の跋扈する領域とだけみなし、キリスト者が祈りの言葉によって諸権力を中間領域から退去させなければならない、とCPWは考えた。そのための方法が「霊的地図」である。

・諸権力がキリストの王国に仕える奉仕者として領域をあずかっているのだとしたら、交番にいる警察官をキリスト者が実力行使で退去させることが出来ないように、キリスト者が祈りの言葉で諸権力を領域から退去させることはできないはずである。CPWは、その出来ないことを出来るかのように提案した。

・われわれはコリント前書15:24の御神言をおそれをもって読むべきである。諸権力を領域から退去させることがおできになるのは、宇宙においてただおひとかた、王イエスキリストのみである。われらキリスト者は、王の統治にただ従属する主体なのであって、われわれが頭になることは出来ない。

・われわれキリスト者が集合的人格としての「鉄の杖で統治する幼な子」なのだとか、われわれキリスト者が「再臨のキリストの足」なのだとか言って、「だから再臨前でもキリスト者は諸権力を退去させ中間領域を占領することができる」という主張は、御神言を曲げる詭弁であり、神の御経綸を暗くしている。

検閲、市民的主体の自由、国家と社会と教会について預言の賜物について

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