力の夜、ヌミノーゼ、テキスト、キリストについて
Tuesday, June 15, 2010 10:49:31 AM
・イスラムの本質は法にも文字にも無く、「力の夜」(ライラートゥ・ル・カドル)にこそあると思います。ラマダンの断食をするのは、その言語に尽くせぬ神の臨在の経験を、再び味わいたいがため。毎日五回の投身礼拝をささげるのは、その圧倒的な臨在に畏怖してひれ伏した経験を、常に想起するため。
・「力の夜」の経験をルドルフ・オットー流に表現すれば「ヌミノーゼ」である。人間を超越した聖なる存在に触れて、畏れのあまりゾッとする経験。畏れのあまり、身も心も全く「神」に献げてしまうという経験。この「絶対依存の感情」が、あらゆる宗教経験の中核にある、とリベラル神学は考えます。
・神性に畏怖しひれふす経験(わが主よ、わが神よ!)は、原始から古代を経て中世、近代、現代と、あらゆる時代、あらゆる地域の宗教経験に共通するとリベラル神学は考えます。ただ、オットーのように、畏怖の経験が進歩発展して最も洗練されたのがキリスト教だ、という弁証をする学者もいます。
・リベラル神学は、「神性への畏怖の経験」が宗教の本質であって、テキストはその経験を生起させるに役立つ限りにおいて尊ぶ、ということになります。「文字ではなく霊」の路線の追求です。すると、宗教感情Nを生起させる限りテキストBとテキストQとテキストRは価値等価ということになります。
・しかし、小生の考えでは、このヌミノーゼというのは言わば「ミルク」であって、確かに美味なれども、真実在(かたい食物)そのものとは区別される何かだ、ということになります。本質(フュシス)と愛(エネルゲイア)が区別されるように、キリストはヌミノーゼそのものではありません。
・さて、ここで重要な岐路となるのは、キリストを誰だと考えるのか、ということです。われらの宗教経験は「ヌミノーゼ」なのであって、ヌミノーゼを生起させるに役立つ限りにおいてキリストを尊ぶのであれば、キリストは相対化されます。ヒックの路線はこれでしょう。
・一方、われらの宗教経験は「キリスト御自身」に存するのであって、ヌミノーゼというのはキリストに随伴する副次現象に過ぎず、あったらよいにこしたことはないが、別になくてもかまわない。大事なのはキリスト御自身である、ということであれば、これはキリストを絶対化することになります。
・本質がヌミノーゼではなくキリストであるならば、すべてのテキストは、正しくキリストを指し示しているかどうか、という一点のみにて価値を判別され取捨選択されることになります。そうして出来たのが新約聖書正典でありましょう。
・してみると新約正典は、われらをキリストに導こうとするものであって、必ずしもヌミノーゼに導こうとするものでない。もちろんキリストとの出会いがヌミノーゼの経験である場合もあるが、そうでない場合もある。キリストがヌミノーゼの装置ではなく、ヌミノーゼがキリストを証しするということです。
・「力の夜」の経験をルドルフ・オットー流に表現すれば「ヌミノーゼ」である。人間を超越した聖なる存在に触れて、畏れのあまりゾッとする経験。畏れのあまり、身も心も全く「神」に献げてしまうという経験。この「絶対依存の感情」が、あらゆる宗教経験の中核にある、とリベラル神学は考えます。
・神性に畏怖しひれふす経験(わが主よ、わが神よ!)は、原始から古代を経て中世、近代、現代と、あらゆる時代、あらゆる地域の宗教経験に共通するとリベラル神学は考えます。ただ、オットーのように、畏怖の経験が進歩発展して最も洗練されたのがキリスト教だ、という弁証をする学者もいます。
・リベラル神学は、「神性への畏怖の経験」が宗教の本質であって、テキストはその経験を生起させるに役立つ限りにおいて尊ぶ、ということになります。「文字ではなく霊」の路線の追求です。すると、宗教感情Nを生起させる限りテキストBとテキストQとテキストRは価値等価ということになります。
・しかし、小生の考えでは、このヌミノーゼというのは言わば「ミルク」であって、確かに美味なれども、真実在(かたい食物)そのものとは区別される何かだ、ということになります。本質(フュシス)と愛(エネルゲイア)が区別されるように、キリストはヌミノーゼそのものではありません。
・さて、ここで重要な岐路となるのは、キリストを誰だと考えるのか、ということです。われらの宗教経験は「ヌミノーゼ」なのであって、ヌミノーゼを生起させるに役立つ限りにおいてキリストを尊ぶのであれば、キリストは相対化されます。ヒックの路線はこれでしょう。
・一方、われらの宗教経験は「キリスト御自身」に存するのであって、ヌミノーゼというのはキリストに随伴する副次現象に過ぎず、あったらよいにこしたことはないが、別になくてもかまわない。大事なのはキリスト御自身である、ということであれば、これはキリストを絶対化することになります。
・本質がヌミノーゼではなくキリストであるならば、すべてのテキストは、正しくキリストを指し示しているかどうか、という一点のみにて価値を判別され取捨選択されることになります。そうして出来たのが新約聖書正典でありましょう。
・してみると新約正典は、われらをキリストに導こうとするものであって、必ずしもヌミノーゼに導こうとするものでない。もちろんキリストとの出会いがヌミノーゼの経験である場合もあるが、そうでない場合もある。キリストがヌミノーゼの装置ではなく、ヌミノーゼがキリストを証しするということです。

