リベラル神学について
Saturday, June 12, 2010 7:19:00 AM
・リベラルすなわち自由主義神学。それはいずこよりいでたるか?
・第ニ世紀における「テレヴァンジェリスト」然としたマルキオンは、劇的演出をした説教で世を風靡する一方、旧約の神を「誤れる神」とみなして、教会の聖なる文書群からユダヤ的要素を排除することに努めた。その結果、マルキオン派が認めた福音書はルカ伝のみ、となる始末であった。
・教会の聖なる文書群が、マルキオンの一派の独自の歴史的視点でもって批判され、校訂され、廃棄されたことに驚愕した世界の司教たちは、司教たちの相互認証による「聖なる文書群の目録」を作成することによって、マルキオンに対抗した。この「聖なる文書群の目録」が聖書正典である。
・つまり、聖書に対する歴史的批判的研究に対抗して聖書が出来た、ということになろうか。だが司教たちによる「聖なる文書群の目録」の相互認証の過程において、ある文書には議論が生じた。文書群中、使徒自筆に疑いないもの、まあ疑いないもの、かなり疑わしいもの、全然怪しいものがあったからである。
・「聖なる文書群の目録」から外すべきかどうかで、かなり後まで議論が残ったのがペトロ後書とヨハネの黙示録である。地方教会会議において、新約正典リストが現在の27文書に決定したのが、主の支配の第6世紀のことであるから、ずいぶんと相互認証には時間を要したことになる。
・相互認証が完了して決定した「聖書正典」は、全キリスト者の信仰と実行の唯一の規範となった。しかし、司教たちが相互認証したから正典になったというわけでもない。正典となった文書群は書かれた最初から正典にふさわしい「正典らしさ」を備えていたから正典とされた、と見ることができる。
・さて「聖書正典」と言ってもヘブライ語とアラム語とギリシャ語で書かれており、帝国の臣民さらに帝国滅亡後の移民らには、読むことも出来ないし、理解することも出来ない。だから一般民衆の言葉に翻訳する必要が生じた。こうして「庶民訳」(ヴルガータ)の訳業が聖ヒエロニムスにより大成された。
・「庶民訳」の訳業があまりに素晴らしかったこと。帝国滅亡後の教会が、帝国の遺産ラテン語を「文化復興」と「普遍的信仰」を推進する道具に使用したため、「庶民訳」は不磨の大典、世界の標準となり、フランク人もゴート人もチュートン人もアングル人もデーン人もロンバルド人も、これを学んだ。
・だが千年後にチュートン人の子(ルター)とフランク人の子(カルヴァン)は、福音的信仰によって回心し、福音的でない教皇の権威にいささかの疑問を抱いた。それは、教皇の自家薬籠中の「庶民訳」に対する疑問ともなった。聖書の本然の信仰は福音的信仰であるはず、と思えたからだ。
・こうして、聖書の本然の信仰が福音的信仰であることを弁明し立証するために、チュートン人の子とフランク人の子は、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語の写本から新たに聖書を翻訳し直すことに着手した。不磨の大典たる「庶民訳」が、庶民の末裔によって挑戦を受けたわけである。
・教会は文盲であったチュートン人とフランク人を千年かけて養育して来たわけだが、いまや立派に成人した子どもらは自立の証しとして「新しい翻訳の聖書」を教会につきつけて、「お母さん、あなたの育て方は、ここが間違っていましたよ」と宣言したのである。母は喜ぶべきであったが、できなかった。
・こともあろうか、チュートン人の子(ルター)とフランク人の子(カルヴァン)は、「正典」からペトロ後書とヨハネの黙示録を除外することを、真剣に考慮し提案した。怒り狂った母は、「庶民訳」を不磨の大典と認めない子どもたちは、例外なくすべて勘当する、と宣言して、離縁状をつきつけた。
・チュートン人の子とフランク人の子が、なぜにペトロ後書と黙示録を嫌ったかといえば、そこに濃厚なユダヤ人の終末論を認めたからである。ミュンスター千年王国派が引き起こした、オウム真理教どころでない大騒動に嫌気がさした二人は、すべての狂信の原因がユダヤ人の終末論にあると早合点した。
・だが、世界の司教たちが相互認証し、教会が千年にわたって「神の言葉」と尊んで来た正典から、どうしていまさらペトロ後書と黙示録、できればヤコブ書をも除外するなどできようか。チュートン人の子とフランク人の子は、そこまで思い切ることができなかった。正典の正典らしさに膝をついたのである。
・プロテスタンティズムの内包する問題が、しかしここに見て取ることができる。「われと神とは無媒介に直結せり」という福音的信仰は、教皇の権威を恐れない。さらには、世界の司教たちの権威をも恐れない。さらに進めば、世界の司教たちが相互認証して出来た「聖書正典」の権威をも恐れないことになる。
・第17世紀のプロテスタントの子である「敬虔派」は、「われと神との無媒介の直結」の体験を最も重視した。そうして、この直結の体験に奉仕し得ないものは、いかなるものであれ、批判にさらされることとなった。まず制度的教会が批判され、次に教職制度が批判され、さらに正典そのものが批判された。
・かくして、敬虔派のハレ大学において、聖書に対する歴史的批評的研究が本格的に開始されたのである。この流れから、モーセ五書資料説が生まれ、モーセ著者説が否定された。モーセ著者説を覆し得るなら、ほかのすべての文書についてもそうできるかどうか精査されなければならなかった。
・リベラルとは、自由であるということだが、自由であるとは、何ものをも恐れないということである。なぜ恐れないのかと言えば、「われと神とは無媒介に直結せり」という宗教体験が核にあるからだ。この人間は「われここに立つ」と叫んで、教皇と司教と教会と正典の権威に対抗して自らの主張をなす。
・大祭司(教皇)は「彼の口を打て」と言って、黙らせようとすること幾たびにも及んだ。しかし、黙らせることは不可能であった。この人間は、本当に「われと神とは無媒介に直結せり」と確信しているからである。それゆえ、誰も黙らせることは出来ない。だれもリベラルの口を塞ぐことは不可能なのだ!
・子らを勘当した母なる教会は、しかしいつまでも怒った母であり続けたのではない。確かに19世紀の教皇は已然として「庶民訳」を不磨の大典とし、新たなる聖書の翻訳を呪詛した。だが20世紀において母の態度は一変した。第二バチカン公会議後に、新たなる聖書の翻訳を認め、自らそれに着手した。
・いまや母なる教会が、聖書協会を支持し(19世紀には呪詛していたのに!)新たなる聖書の翻訳に力を貸し、それどころかミサにおいて新しい翻訳の聖書を用いることさえ認めているのだ。あのチュートン人の子とフランク人の子は今頃、新エルサレムの窓辺で驚愕のあまり卒倒していることであろう。
・卒倒している二人をやさしく介抱しているのは、小生の想像によれば、聖パウロそのひとと、それに、聖イグナティウス・デ・ロヨラであるかもしれない。
・パウロが二人を介抱するというのは、そもそもパウロが面とむかってペトロをなじり、主イエスの弟ヤコブを軽くあしらったことが、すべてのことの始まりと言えるかもしれないからである。ロヨラが二人を介抱するというのは、敵手とは言えロヨラとカルヴァンがパリ大学の同窓生のよしみであるからだ。
・第ニ世紀における「テレヴァンジェリスト」然としたマルキオンは、劇的演出をした説教で世を風靡する一方、旧約の神を「誤れる神」とみなして、教会の聖なる文書群からユダヤ的要素を排除することに努めた。その結果、マルキオン派が認めた福音書はルカ伝のみ、となる始末であった。
・教会の聖なる文書群が、マルキオンの一派の独自の歴史的視点でもって批判され、校訂され、廃棄されたことに驚愕した世界の司教たちは、司教たちの相互認証による「聖なる文書群の目録」を作成することによって、マルキオンに対抗した。この「聖なる文書群の目録」が聖書正典である。
・つまり、聖書に対する歴史的批判的研究に対抗して聖書が出来た、ということになろうか。だが司教たちによる「聖なる文書群の目録」の相互認証の過程において、ある文書には議論が生じた。文書群中、使徒自筆に疑いないもの、まあ疑いないもの、かなり疑わしいもの、全然怪しいものがあったからである。
・「聖なる文書群の目録」から外すべきかどうかで、かなり後まで議論が残ったのがペトロ後書とヨハネの黙示録である。地方教会会議において、新約正典リストが現在の27文書に決定したのが、主の支配の第6世紀のことであるから、ずいぶんと相互認証には時間を要したことになる。
・相互認証が完了して決定した「聖書正典」は、全キリスト者の信仰と実行の唯一の規範となった。しかし、司教たちが相互認証したから正典になったというわけでもない。正典となった文書群は書かれた最初から正典にふさわしい「正典らしさ」を備えていたから正典とされた、と見ることができる。
・さて「聖書正典」と言ってもヘブライ語とアラム語とギリシャ語で書かれており、帝国の臣民さらに帝国滅亡後の移民らには、読むことも出来ないし、理解することも出来ない。だから一般民衆の言葉に翻訳する必要が生じた。こうして「庶民訳」(ヴルガータ)の訳業が聖ヒエロニムスにより大成された。
・「庶民訳」の訳業があまりに素晴らしかったこと。帝国滅亡後の教会が、帝国の遺産ラテン語を「文化復興」と「普遍的信仰」を推進する道具に使用したため、「庶民訳」は不磨の大典、世界の標準となり、フランク人もゴート人もチュートン人もアングル人もデーン人もロンバルド人も、これを学んだ。
・だが千年後にチュートン人の子(ルター)とフランク人の子(カルヴァン)は、福音的信仰によって回心し、福音的でない教皇の権威にいささかの疑問を抱いた。それは、教皇の自家薬籠中の「庶民訳」に対する疑問ともなった。聖書の本然の信仰は福音的信仰であるはず、と思えたからだ。
・こうして、聖書の本然の信仰が福音的信仰であることを弁明し立証するために、チュートン人の子とフランク人の子は、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語の写本から新たに聖書を翻訳し直すことに着手した。不磨の大典たる「庶民訳」が、庶民の末裔によって挑戦を受けたわけである。
・教会は文盲であったチュートン人とフランク人を千年かけて養育して来たわけだが、いまや立派に成人した子どもらは自立の証しとして「新しい翻訳の聖書」を教会につきつけて、「お母さん、あなたの育て方は、ここが間違っていましたよ」と宣言したのである。母は喜ぶべきであったが、できなかった。
・こともあろうか、チュートン人の子(ルター)とフランク人の子(カルヴァン)は、「正典」からペトロ後書とヨハネの黙示録を除外することを、真剣に考慮し提案した。怒り狂った母は、「庶民訳」を不磨の大典と認めない子どもたちは、例外なくすべて勘当する、と宣言して、離縁状をつきつけた。
・チュートン人の子とフランク人の子が、なぜにペトロ後書と黙示録を嫌ったかといえば、そこに濃厚なユダヤ人の終末論を認めたからである。ミュンスター千年王国派が引き起こした、オウム真理教どころでない大騒動に嫌気がさした二人は、すべての狂信の原因がユダヤ人の終末論にあると早合点した。
・だが、世界の司教たちが相互認証し、教会が千年にわたって「神の言葉」と尊んで来た正典から、どうしていまさらペトロ後書と黙示録、できればヤコブ書をも除外するなどできようか。チュートン人の子とフランク人の子は、そこまで思い切ることができなかった。正典の正典らしさに膝をついたのである。
・プロテスタンティズムの内包する問題が、しかしここに見て取ることができる。「われと神とは無媒介に直結せり」という福音的信仰は、教皇の権威を恐れない。さらには、世界の司教たちの権威をも恐れない。さらに進めば、世界の司教たちが相互認証して出来た「聖書正典」の権威をも恐れないことになる。
・第17世紀のプロテスタントの子である「敬虔派」は、「われと神との無媒介の直結」の体験を最も重視した。そうして、この直結の体験に奉仕し得ないものは、いかなるものであれ、批判にさらされることとなった。まず制度的教会が批判され、次に教職制度が批判され、さらに正典そのものが批判された。
・かくして、敬虔派のハレ大学において、聖書に対する歴史的批評的研究が本格的に開始されたのである。この流れから、モーセ五書資料説が生まれ、モーセ著者説が否定された。モーセ著者説を覆し得るなら、ほかのすべての文書についてもそうできるかどうか精査されなければならなかった。
・リベラルとは、自由であるということだが、自由であるとは、何ものをも恐れないということである。なぜ恐れないのかと言えば、「われと神とは無媒介に直結せり」という宗教体験が核にあるからだ。この人間は「われここに立つ」と叫んで、教皇と司教と教会と正典の権威に対抗して自らの主張をなす。
・大祭司(教皇)は「彼の口を打て」と言って、黙らせようとすること幾たびにも及んだ。しかし、黙らせることは不可能であった。この人間は、本当に「われと神とは無媒介に直結せり」と確信しているからである。それゆえ、誰も黙らせることは出来ない。だれもリベラルの口を塞ぐことは不可能なのだ!
・子らを勘当した母なる教会は、しかしいつまでも怒った母であり続けたのではない。確かに19世紀の教皇は已然として「庶民訳」を不磨の大典とし、新たなる聖書の翻訳を呪詛した。だが20世紀において母の態度は一変した。第二バチカン公会議後に、新たなる聖書の翻訳を認め、自らそれに着手した。
・いまや母なる教会が、聖書協会を支持し(19世紀には呪詛していたのに!)新たなる聖書の翻訳に力を貸し、それどころかミサにおいて新しい翻訳の聖書を用いることさえ認めているのだ。あのチュートン人の子とフランク人の子は今頃、新エルサレムの窓辺で驚愕のあまり卒倒していることであろう。
・卒倒している二人をやさしく介抱しているのは、小生の想像によれば、聖パウロそのひとと、それに、聖イグナティウス・デ・ロヨラであるかもしれない。
・パウロが二人を介抱するというのは、そもそもパウロが面とむかってペトロをなじり、主イエスの弟ヤコブを軽くあしらったことが、すべてのことの始まりと言えるかもしれないからである。ロヨラが二人を介抱するというのは、敵手とは言えロヨラとカルヴァンがパリ大学の同窓生のよしみであるからだ。

