神学的断想

潜在意識に頑固にこびりついていたのは、なにかまだ説明のついていないものがあるという表現不能の確信だった。<チェスタートン>

人間と虚無と復活について

平穏無事な日常というものを、われわれはことさらありがたがることもなく過ごして来たわけだが、平穏無事な日常が一瞬に取り去られるのだということ、また、どんなに立派で有能な政府であっても、平穏無事な日常が取り去られるのを防ぐ手だては持っていないということを、われわれは見させられている。

等身大の一個の人間に出来ることは、ごく限られている。しかし、協働する多数の人間が成す巨大な構造物としての「社会」は、個人の限度を超えて多くのことをなし得るようになる。それが、動力としてのエネルギーを入手した時、ほとんどあらゆることをなし得るかのように錯覚する。限度は忘却される。

限度が忘却されたときに、あの「虚無の力」が到来した。多数の協働する人間が成す構造物としての「社会」は、その限界をつきつけられ、また、その手からエネルギーを荒々しく奪い取られた。こうしてわれわれは、再び等身大の人間に戻り、自分に何が出来、何が出来ないかを知るようにされる。

再び人間が「虚無の力」に抗して生きるためには、等身大の人間が「虚無の力」によって限界づけられつつも、ほかの人間と手をつなぎ協働して「社会」という構造物を築き直すほかない。その社会は「虚無の力」によって傷痕を深く刻印されているものの、もうおのれの限度をわきまえている新しい社会である。

「虚無の力」は繰り返しやって来る。そのたびに人間は限界づけられる。限界づけられるゆえに、人間はほかの人間と互いに手をつなごうとする。人間の本質が互いに手をつなぐことのうちに存するのであれば、結局のところ「虚無の力」は人間を滅し去ることは出来ず、人間をより人間たらしめるだけである。

人間の本質が、ほかの人間と互いに手をつなぐことのうちに存するのだとすれば、そのようなわれわれに知られ得る神とは、人間として手をつなぐ神、すなわち、あの「虚無の力」によって限度づけられ限界づけられて、決して消えない深い傷痕の刻印を受けた、等身大の人間になった神としての「神」である。

「虚無の力」によって限界づけられて消えない傷痕を刻印された人間としての「神」は、三日目に復活することによって「虚無の力」に対し一つの超えられない限界線を定めた。すなわち、人間は復活において死を越えて手をつなぎ続ける存在であり、「虚無の力」は人間の永遠の紐帯に触れることが出来ない。

この夕餉において、この食物を食べ、この飲物を飲む時、十字架において命となられた主イエスキリストの犠牲を想起することができますように!

今宵、互いに手をつなぎあう人々が囲む、すべての食卓において、あの「虚無の力」が決して触れることが出来ない人間の永遠の紐帯が、喜びをもって想起されますように!

自己と他者、超越と志向性、受苦性と聖化教会はチリを払い落として去るのか?

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