フォイエルバッハ問題
Wednesday, May 27, 2009 4:31:33 PM
・ヘーゲル → ヘーゲル左派/フォイエルバッハ → マルクス/エンゲルス
・フォイエルバッハによる宗教批判。
・人間と身体性とを同一視。
・人間とは他者によって限界づけられている存在である。
・限界づけられているもの=身体性
・限界づけているもの=他者
・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)ことによって自らを自らたらしめる(主体化する)もの=実存
・限界づけられていることによって不可避的に経験せしめられる苦痛=人間の受苦性
・「人間は身体である。ゆえに、人間は苦しむ」 人間存在がその最初から最後まで終始一貫して・しかも・不可避的に負わせられている受難としての十字架。人間は本来的に苦しむ存在である。
・苦痛から逃れるために人間が行なうところのたくらみ。
・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体は、そうすることによって、おのれのうちに「内在する客体」を保有するようになり、「この・対象化」によって、おのれを外部から限界づけているところの、ほんとうの他者に通じようと試みる。(毛沢東『矛盾論』を参照せよ)
・主体が「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」を、おのれを「補完する存在」として取り込もうとする、たくらみ、もしくは、志向性。それが「理性」である。(これは、正・反・合の弁証法的展開であり、ヘーゲルの流れである)
・苦難から逃れるために人間が行なうところのたくらみ、としての「理性」あるいは科学、もしくは、身体性(自然)の征服・制圧・支配・管理。
・苦難から逃れる為に人間が行なうところの、もうひとつのたくらみ、としての「宗教」
・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体=人間=の「投影像」としての主イエスキリスト。
・十字架につけられた主イエスキリストは・われわれの・本然の姿の・投影である。
・そのイエスキリスト・のみ・を拝み、そのイエスキリストに・似た者に・なる、ということは、結局のところ、「人間が人間になる」つまり「わたしが本然のわたしになる」ということに過ぎない。
・主イエスキリストに・似た者に・なる、つまり、「人間の神化」は、とどのつまり、人間が人間として人間の身体性および自然を征服・制圧・支配・管理することについての、全面的肯定を述べているに過ぎない。
・「限界づけられていることを自らのうちに引き受ける」主体としての受難の主イエスキリスト、および、十字架を担う主の弟子たち。
・「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」とされたところの「補完する存在」としての「聖霊」
・この「聖霊」によって、通じ合えるところの、外部にいる「ほんとうの他者」としての「父なる神」
・かくして、三位一体の神すらもが、人間が人間を描いたスケッチに過ぎない。
・苦痛から逃れるために人間が行なうところの「たくらみ」としての科学と宗教は、たくらみとしては、双方本質的に同じであり、変わるところがない。ただ、双方の用いる言語が、数学的であるか、宗教的であるか、の表現方法の違いにしか過ぎない。
・人間が人間としての身体性および身体性の延長としての自然(それらは、自己のうちに内在する客体、すなわち、あの・対象化された「像」において その「像」を媒介して、把握されるところの自然である)は、「矛盾の解消」の過程におかれ、「人間化」の過程におかれ、「同一化」の過程におかれ、「止揚へ」の過程におかれ、「客体と主体の融合一致」の過程におかれている。
・その弁証法的な過程が目指すところは、人間が、人間の身体性および自然を、征服し、制圧し、支配し、管理することに、向けられている。
・科学と宗教の「完全なる同根」!
・科学も宗教も、自然を征服し、制圧し、支配し、管理するために、人間によって使役されるところの道具(ツール)に過ぎない。
それでは、われわれキリスト者は、フォイエルバッハに、如何に答えるべきか?
・アスランは飼い慣らされたライオンではない。死は、すなわち、人間を限界づける他者として最強の力をふるって、受苦性と同義であるところの身体性を、粉々に破壊してしまうところの、ほとんど絶対的な他者である。しかし、アスランは、死を打ち破り、復活なさった。
・アスランは、自然を征服し、制圧し、支配し、管理することができる。彼は王として死に、王として復活し、受苦性と同義であるところの身体性を、復活へともたらした・つまり・永遠不滅のものとした。
・その一方、われわれはだれも、アスランを征服し、制圧し、支配し、管理することは、できない。
・だれも、アスランの死骸を(つまり、あの・対象化によって、客体化されたところの「神」を)「客体」という箱・すなわち「墓」の中に、ずっと閉じ込めておくことは、できない。
・「あのかたは、ここにはおられない」!
・だれも、復活のアスランを墓(つまり、あの・対象化という墓、あの・客体化という墓)の中に閉じ込めておくことができず、三日目にアスランは復活して、そこから抜け出たもうた。
・問い「アスランは人間の像であるか?」
・答え「アスランは人間の像ではない、と考えられる」
・けだし、人間を人間たらしめているものは、その身体性であり、その受苦性であり、人間は苦痛から逃れる為に、「内在する客体」において/を媒介として、身体性/自然を征服し、制圧し、支配し、管理しようと「たくらむ」のであるが、その「自然の征服」は、宗教では、受肉し十字架にかかり復活した主イエスキリストによって推進され、かつ、科学では、主体と客体の間の矛盾を超え出てゆく科学的実験と、自然をコントロールする道具としての科学的技術によって推進される。
・そのイエスキリストは人間の「像」である、と言われている。しかし、イエスキリストは、墓(客体化)によって、征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得なかった。
・ところで、キリストが人間の「像」であるならば、その論理的帰結は、人間はキリスト同様、客体化によって征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得ないことになる。
・最後の問い「征服され得ないものが、征服する、というとき、その征服され得ないものが、その征服する対象であるところのものと、同一である、ということが、あり得るか?」(常勝のドイツ軍が勝利する、というとき、その常勝のドイツ軍が、戦いで敗北した相手であるところのドイツ軍と、同一である、ということが、あり得るか?)
・「あり得ない」
・これをもって、フォイエルバッハへの反駁は、終わった。
・フォイエルバッハによる宗教批判。
・人間と身体性とを同一視。
・人間とは他者によって限界づけられている存在である。
・限界づけられているもの=身体性
・限界づけているもの=他者
・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)ことによって自らを自らたらしめる(主体化する)もの=実存
・限界づけられていることによって不可避的に経験せしめられる苦痛=人間の受苦性
・「人間は身体である。ゆえに、人間は苦しむ」 人間存在がその最初から最後まで終始一貫して・しかも・不可避的に負わせられている受難としての十字架。人間は本来的に苦しむ存在である。
・苦痛から逃れるために人間が行なうところのたくらみ。
・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体は、そうすることによって、おのれのうちに「内在する客体」を保有するようになり、「この・対象化」によって、おのれを外部から限界づけているところの、ほんとうの他者に通じようと試みる。(毛沢東『矛盾論』を参照せよ)
・主体が「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」を、おのれを「補完する存在」として取り込もうとする、たくらみ、もしくは、志向性。それが「理性」である。(これは、正・反・合の弁証法的展開であり、ヘーゲルの流れである)
・苦難から逃れるために人間が行なうところのたくらみ、としての「理性」あるいは科学、もしくは、身体性(自然)の征服・制圧・支配・管理。
・苦難から逃れる為に人間が行なうところの、もうひとつのたくらみ、としての「宗教」
・限界づけられていることを自らのうちに引き受ける(客体化する)主体=人間=の「投影像」としての主イエスキリスト。
・十字架につけられた主イエスキリストは・われわれの・本然の姿の・投影である。
・そのイエスキリスト・のみ・を拝み、そのイエスキリストに・似た者に・なる、ということは、結局のところ、「人間が人間になる」つまり「わたしが本然のわたしになる」ということに過ぎない。
・主イエスキリストに・似た者に・なる、つまり、「人間の神化」は、とどのつまり、人間が人間として人間の身体性および自然を征服・制圧・支配・管理することについての、全面的肯定を述べているに過ぎない。
・「限界づけられていることを自らのうちに引き受ける」主体としての受難の主イエスキリスト、および、十字架を担う主の弟子たち。
・「この・対象化」によって、おのれのうちに「内在する客体」とされたところの「補完する存在」としての「聖霊」
・この「聖霊」によって、通じ合えるところの、外部にいる「ほんとうの他者」としての「父なる神」
・かくして、三位一体の神すらもが、人間が人間を描いたスケッチに過ぎない。
・苦痛から逃れるために人間が行なうところの「たくらみ」としての科学と宗教は、たくらみとしては、双方本質的に同じであり、変わるところがない。ただ、双方の用いる言語が、数学的であるか、宗教的であるか、の表現方法の違いにしか過ぎない。
・人間が人間としての身体性および身体性の延長としての自然(それらは、自己のうちに内在する客体、すなわち、あの・対象化された「像」において その「像」を媒介して、把握されるところの自然である)は、「矛盾の解消」の過程におかれ、「人間化」の過程におかれ、「同一化」の過程におかれ、「止揚へ」の過程におかれ、「客体と主体の融合一致」の過程におかれている。
・その弁証法的な過程が目指すところは、人間が、人間の身体性および自然を、征服し、制圧し、支配し、管理することに、向けられている。
・科学と宗教の「完全なる同根」!
・科学も宗教も、自然を征服し、制圧し、支配し、管理するために、人間によって使役されるところの道具(ツール)に過ぎない。
それでは、われわれキリスト者は、フォイエルバッハに、如何に答えるべきか?
・アスランは飼い慣らされたライオンではない。死は、すなわち、人間を限界づける他者として最強の力をふるって、受苦性と同義であるところの身体性を、粉々に破壊してしまうところの、ほとんど絶対的な他者である。しかし、アスランは、死を打ち破り、復活なさった。
・アスランは、自然を征服し、制圧し、支配し、管理することができる。彼は王として死に、王として復活し、受苦性と同義であるところの身体性を、復活へともたらした・つまり・永遠不滅のものとした。
・その一方、われわれはだれも、アスランを征服し、制圧し、支配し、管理することは、できない。
・だれも、アスランの死骸を(つまり、あの・対象化によって、客体化されたところの「神」を)「客体」という箱・すなわち「墓」の中に、ずっと閉じ込めておくことは、できない。
・「あのかたは、ここにはおられない」!
・だれも、復活のアスランを墓(つまり、あの・対象化という墓、あの・客体化という墓)の中に閉じ込めておくことができず、三日目にアスランは復活して、そこから抜け出たもうた。
・問い「アスランは人間の像であるか?」
・答え「アスランは人間の像ではない、と考えられる」
・けだし、人間を人間たらしめているものは、その身体性であり、その受苦性であり、人間は苦痛から逃れる為に、「内在する客体」において/を媒介として、身体性/自然を征服し、制圧し、支配し、管理しようと「たくらむ」のであるが、その「自然の征服」は、宗教では、受肉し十字架にかかり復活した主イエスキリストによって推進され、かつ、科学では、主体と客体の間の矛盾を超え出てゆく科学的実験と、自然をコントロールする道具としての科学的技術によって推進される。
・そのイエスキリストは人間の「像」である、と言われている。しかし、イエスキリストは、墓(客体化)によって、征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得なかった。
・ところで、キリストが人間の「像」であるならば、その論理的帰結は、人間はキリスト同様、客体化によって征服され得ず、制圧され得ず、支配され得ず、管理され得ないことになる。
・最後の問い「征服され得ないものが、征服する、というとき、その征服され得ないものが、その征服する対象であるところのものと、同一である、ということが、あり得るか?」(常勝のドイツ軍が勝利する、というとき、その常勝のドイツ軍が、戦いで敗北した相手であるところのドイツ軍と、同一である、ということが、あり得るか?)
・「あり得ない」
・これをもって、フォイエルバッハへの反駁は、終わった。

