科学が科学であることを止める地点
Friday, August 5, 2011 12:26:15 AM
・ドーキンスは神を否定するけれど、神の概念が社会に存在する事実は否定できない。ドーキンスは一切を「閉じた系」内の進化で説明しようとするけれど、そうなると、進化の中から「神の概念」という行動様式が発生したことを説明できなければならない。説明しきれないなら、矛盾が生じる。
・「閉じた系」内の進化で説明できない矛盾があるならば、「開いた系」を考慮しなければならなくなる。さて、キリスト教は宇宙の外部の他者からの影響力を根幹に置いて世界内の矛盾を説明しようとするのだから、これは「開いた系」の考え方であって、ドーキンスはこの方向性を承認しなきゃならない。
・「閉じた系」の内部で説明がつかない場合、「開いた系」を考える。しかし、開いた系は、全体ではなく部分であるから、その系を包含するより大きな系としての「閉じた系」を考えることになる。その大きな「閉じた系」の内部でも説明がつかない場合、より大きな「開いた系」を考える。
・より大きな「開いた系」を包含する、より大きな「閉じた系」を考える。それを何度も繰り返して行って、もうこれ以上大きな「開いた系」を考えられないという地点に達したときに、「最終的な外部的要因」というものを想定することになる。この最終的な外部的要因は、聖トマスの第一原因と似ている。
・「最終的な外部的要因」というものは、宇宙の遠景に隠れている。「閉じた系」の内部で説明がつかない矛盾を「開いた系」に求めるという人間の探求は、この宇宙の遠景に隠れている「最終的な外部的要因」を志向する線上を進んでいる。部分に過ぎない人間の探求は、「最終的な外部的要因」を追い続ける。
・しかし、部分に過ぎない人間の探求のゆえに、「最終的な外部的要因」に、人間が完全に到達することは、あり得ない。人間は永遠に前進し続けるが、「最終的な外部的要因」は、永遠に宇宙の遠景に退き続ける。
・永遠に宇宙の遠景に退き続ける「最終的な外部的要因」を、わたしはつかまえた、と宣言した時点で、科学は終焉し、科学という看板を下ろさなければならない。
・「閉じた系」内の進化で説明できない矛盾があるならば、「開いた系」を考慮しなければならなくなる。さて、キリスト教は宇宙の外部の他者からの影響力を根幹に置いて世界内の矛盾を説明しようとするのだから、これは「開いた系」の考え方であって、ドーキンスはこの方向性を承認しなきゃならない。
・「閉じた系」の内部で説明がつかない場合、「開いた系」を考える。しかし、開いた系は、全体ではなく部分であるから、その系を包含するより大きな系としての「閉じた系」を考えることになる。その大きな「閉じた系」の内部でも説明がつかない場合、より大きな「開いた系」を考える。
・より大きな「開いた系」を包含する、より大きな「閉じた系」を考える。それを何度も繰り返して行って、もうこれ以上大きな「開いた系」を考えられないという地点に達したときに、「最終的な外部的要因」というものを想定することになる。この最終的な外部的要因は、聖トマスの第一原因と似ている。
・「最終的な外部的要因」というものは、宇宙の遠景に隠れている。「閉じた系」の内部で説明がつかない矛盾を「開いた系」に求めるという人間の探求は、この宇宙の遠景に隠れている「最終的な外部的要因」を志向する線上を進んでいる。部分に過ぎない人間の探求は、「最終的な外部的要因」を追い続ける。
・しかし、部分に過ぎない人間の探求のゆえに、「最終的な外部的要因」に、人間が完全に到達することは、あり得ない。人間は永遠に前進し続けるが、「最終的な外部的要因」は、永遠に宇宙の遠景に退き続ける。
・永遠に宇宙の遠景に退き続ける「最終的な外部的要因」を、わたしはつかまえた、と宣言した時点で、科学は終焉し、科学という看板を下ろさなければならない。

