神義論についてのメモ
Thursday, March 11, 2010 8:58:04 AM
・神義論とは、世界になぜ悪が存在するのか、という問いである。
・さて、世界の根源が悪であったなら、世界内存在によって、悪は悪として認識され得るか? 答え「されない。その世界においては悪が唯一の常態であるから」
・ところで、世界内存在であるわれわれは、一部の哲学的立場を別にすれば、悪を悪として認識している。すると、世界の根源は、必ずしも悪ではなかったかもしれない、ということになる。
・では、世界の根源が善であると仮定して、なぜ善なるものから悪が生じるのか。これは、矛盾である。
・この矛盾を究明しようとする世界内存在の営為が、宗教である。
・第一の立場。矛盾は錯覚に過ぎず、事物の本然においてはなんら矛盾は存在しない、と観る。
・第二の立場。あらゆる事物は、それに相対するところの他者に限界づけられることでもって、事物たり得ている、つまり、矛盾していることが存在の自己同一性であり、矛盾は永遠の常態である、と観る。
・第三の立場。矛盾は、統一性における多様性から発して、多様性におけるところの個別性を通って、多様性における統一性へと向かっている、つまり、矛盾とは、存在から発して、存在を乗り越えて、存在へと向かって行くところの運動である、と観る。
・聖書の使信は、第三の立場である。三位一体の神が世界を創造し、世界内存在はその多様性において個別性を獲得し、しかも世界内存在は、その個別性において、その個別性をとおして、三位一体の神の統一性へと向かって動いて行く。この運動が救済史であり、その救済史を下部構造として持つところの上部構造が歴史である。
・聖書の使信は、また第二の立場でもある。世界内存在がその多様性において個別性を獲得するという過程においては、ある世界内存在が、それに相対するところの他者としてのもうひとつの世界内存在に限界づけられることでもって、初めてその個別性を獲得することができる。この限界づけられるということが、世界内存在の身体性であり受苦性である。
・聖書の使信は、また第一の立場でもある。世界内存在が、他者による限界づけによる身体性と受苦性を引き受けることによって、個別性を獲得するとき、その個別性において、そうして、その身体性と受苦性とを通して、世界内存在は三位一体の神と結ばれるからである。なぜなら、個別性ということ、身体性ということ、受苦性ということの中に、世界内存在と三位一体の神との「結合点」が存在しているからである。その結合点とは、受肉して身体性を獲得し、その身体性において受苦し、その受苦において三位一体の神の統一性としての「愛」を体現した主イエスキリストである。あらゆる世界内存在が、この「愛」という目的にすべて引き寄せられるとき、本然において矛盾が無いことが明らかになる。
・さて、世界の根源が悪であったなら、世界内存在によって、悪は悪として認識され得るか? 答え「されない。その世界においては悪が唯一の常態であるから」
・ところで、世界内存在であるわれわれは、一部の哲学的立場を別にすれば、悪を悪として認識している。すると、世界の根源は、必ずしも悪ではなかったかもしれない、ということになる。
・では、世界の根源が善であると仮定して、なぜ善なるものから悪が生じるのか。これは、矛盾である。
・この矛盾を究明しようとする世界内存在の営為が、宗教である。
・第一の立場。矛盾は錯覚に過ぎず、事物の本然においてはなんら矛盾は存在しない、と観る。
・第二の立場。あらゆる事物は、それに相対するところの他者に限界づけられることでもって、事物たり得ている、つまり、矛盾していることが存在の自己同一性であり、矛盾は永遠の常態である、と観る。
・第三の立場。矛盾は、統一性における多様性から発して、多様性におけるところの個別性を通って、多様性における統一性へと向かっている、つまり、矛盾とは、存在から発して、存在を乗り越えて、存在へと向かって行くところの運動である、と観る。
・聖書の使信は、第三の立場である。三位一体の神が世界を創造し、世界内存在はその多様性において個別性を獲得し、しかも世界内存在は、その個別性において、その個別性をとおして、三位一体の神の統一性へと向かって動いて行く。この運動が救済史であり、その救済史を下部構造として持つところの上部構造が歴史である。
・聖書の使信は、また第二の立場でもある。世界内存在がその多様性において個別性を獲得するという過程においては、ある世界内存在が、それに相対するところの他者としてのもうひとつの世界内存在に限界づけられることでもって、初めてその個別性を獲得することができる。この限界づけられるということが、世界内存在の身体性であり受苦性である。
・聖書の使信は、また第一の立場でもある。世界内存在が、他者による限界づけによる身体性と受苦性を引き受けることによって、個別性を獲得するとき、その個別性において、そうして、その身体性と受苦性とを通して、世界内存在は三位一体の神と結ばれるからである。なぜなら、個別性ということ、身体性ということ、受苦性ということの中に、世界内存在と三位一体の神との「結合点」が存在しているからである。その結合点とは、受肉して身体性を獲得し、その身体性において受苦し、その受苦において三位一体の神の統一性としての「愛」を体現した主イエスキリストである。あらゆる世界内存在が、この「愛」という目的にすべて引き寄せられるとき、本然において矛盾が無いことが明らかになる。

