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kij9598

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I can speak


太宰治




 くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさ

の堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、

となむ。わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌で

なく、謂いわば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめ

て、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま

、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い

小説に取りかかった。
 昨年、九月、甲州の御坂峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少し

ずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そん

なに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東

京へ帰るまい、と御坂の木枯つよい日に、勝手にひとりで約束した。
 ばかな約束をしたものである。九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった

。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分で勝手に

、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれ

は破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。甲府へ降りようと思った。甲

府なら、東京よりも温いほどで、この冬も大丈夫すごせると思った。
 甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋

、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、

少しずつ仕事をすすめた。
 おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来

る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこ

の女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在っ

て、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う

。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじのぼって、その声の主を、ひとめ見

たいとさえ思った。
 ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われている

かわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに

、けなげに、はげまして呉れたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書

き散らして、工場の窓から、投文しようかとも思った。
 けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失った

ら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては

、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。
 恋、かも知れなかった。二月、寒いしずかな夜である。工場の小路で、酔漢の荒い

言葉が、突然起った。私は、耳をすました。
 ――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ

笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉

さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっ

ているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何を

、そんなに笑うんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征するんだ。そのときは、

おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働きはできるさ。嘘だよ、まだ出征

とは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak

English? Yes, I can. いいなあ、英語って奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おら

あ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ

。……
 私は、障子を少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。

その弟の白いレンコオトだった。
 季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場の塀にひたと脊中をくっ

つけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、ひとりの女工さんが、上半身乗り

出し、酔った弟を、見つめている。
 月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工さんの顔も、はっきりとは見えなかった

。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼い

感じであった。I can speak というその酔漢の英語が、くるしいくらい私を撃った。

はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る。ふっと私は、忘れた歌を思

い出したような気がした。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがた

い。
 あの夜の女工さんは、あのいい声のひとであるか、どうかは、それは、知らない。

ちがうだろうね。
(「若草」昭和十四年二月号)

愛は、力は土より

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