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kij9598

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藍瓶



田中貢太郎




玄関の格子戸
がずりずりと開いて入って来た者があるので、順作は杯を持ったなりに、その前に坐った女の白粉をつけた眼の下に曇のある顔をちょと見てから、右斜にふりかえって玄関のほうを見た。そこには煤けた障子が陰鬱な曇日の色の中に浮いていた。
「何人だろう」
 何人にも知れないようにそっと引越して来て、まだ中一日たったばかりのところへ、何人がどうして知って来たのだろう、まさか彼ではあるまいと順作は思った。と、障子がすうと開いて黄ろな小さな顔が見えた。
「おったか、おったか」
 それは出しぬいて犬の子か何かを棄てるように棄てて来た父親であった。
「あ」
 順作はさすがに父親の顔を見ていることができなかった。それにしても荷車まで遠くから頼んで、知れないように知れないようにとして来たのに、どうして知ったのだろうと不思議でたまらなかった。
「電車をおりて、十丁ぐらいだと聞いたが、どうして小一里もあるじゃないか、やれ、やれ」
 どろどろして灰色に見える小さな縦縞のある白い単衣を着た老人は、障子を締めてよぼよぼと来て茶ぶ台の横に坐った。
「よく知れた、ね」
 順作はしかたなしにそう云って父親の小さな黄ろな顔を見た時、その左の眼の上瞼
の青黒く腫れあがっているのに気が注いた。
「前の車屋の親方が聞いて来てくれたよ、お前が出しぬけに引越したものだから、俺、お大師さんから[#「お大師さんから」は底本では「お太師さんから」]帰ってまごまごしてると、車屋の親方が来て、お前さんとこの息子は、とんでもねえ奴だ、親を棄てて逃げるなんて、警察へ云ってくが宜い、俺がいっしょに往いてやろうと云うから、俺がそいつはいけねえ、あれもこれまで商売してて、旨く往かなかったから、都合があって引越したのだ、そいつはいけねえと断ったよ」
「あたりまえよ、不景気で借金が出来たから、ちょと逃げてるのだ、警察なんか怖いものか」
「そうとも、そうとも、だから俺、あの親方が、家へ来いと云ってくれたが往かなかったよ」
「よけいなおせっかいだ」
「そうとも、俺は癪にさわったよ、お前さんとこの息子もいけないが、あの女がいけねえのだ、ちゃぶ屋を渡り歩いた、したたかものだ、とっさんが傍にいると……」
 父親のほうはよう見ずに紅い手柄をかけた結いたての円髷の一方を見せながら、火鉢の火を見ていた女が怒りだした。
「どうせ私は、ちゃぶ屋を渡り歩いた、したたかものですよ」
 父親はあわてて云った。
「ま、ま、ま、お前さん、俺は、お前さんの悪口を云うのじゃない、車屋の親方の云ったことを、云ってるところじゃ……」
「どうせ私は、そうですよ、ちゃぶ屋を渡り歩いた、したたかものですよ」
 女は父親の顔に怒った眼を向けた。父親の青黒く腫れあがった左の眼が青くきろきろと光った。
「よけいなことを云うからだ、車屋の痴なんかの云ったことを、お浚いするからいけないのだ」
 順作はよけいなことを云っていい気もちになっていた女を怒らした闖入者が憎くて憎くてたまらなかった。
「そ、そ、そりゃわるい、そりゃ俺がわるいが、俺は姐さんの悪口を云われたから、癪にさわって、それで云ってるところじゃ、だから車屋の親方が、家へ来て、飯も喫
え、家におれと云ってくれたが、癪にさわったから往かなかったよ」
「それじゃ、どうして知った」
「車屋の壮佼に、荷車の壮佼を知った者があってね」
「そうか」
 あんなに旨くやったのにまたしても知られたのかと思って順作は忌いましかった。そうした順作の考えのうちには、その前の途中で仲間に逢ったがために知られた引越のことも絡まっていた。
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